「己の無謬を信じる者が改革を進めた社会や組織は悪くなる」 『ダーウィンの呪い』

 ヨーロッパでは、紀元前4世紀の古代ギリシャの頃から優生思想があったそうです。日本などアジアではどうなのかわからないのですが、文字としては残っていなくても、考え方としては存在していたのではないかと思っています。

 優生思想とは、人間の優良な血統を増やそうとする考え方。

 チャールズ・ダーウィンの従兄弟であるフランシス・ゴルトンが、優生学の創始者とされています。

 優生思想は、ダーウィンの進化論の曲解や拡大解釈と結びついて、ナチスのホロコーストに至るわけですが、その過程が重要なのだと『ダーウィンの呪い』(著/千葉聡 講談社)を読むと思えるのです。

 優生思想を発展させたのは、ナチスドイツではなく、イギリスやアメリカなどの科学者たちでした。偏った思想の持ち主でもなく、ただ「よかれ」と思って、ガスを用いた障碍者の安楽死を考案したのでした。それがナチスによって先鋭化されて、「や、ヤバイ……」と思い始める人が現れたようです。
 もちろん、優生思想に最初から否定的な科学者もいて、ダーウィンもその一人です。人道的な観点ではなく、「そんなこと、そもそも無理だよ」という立場でした。

 また、ゴルトンなどだけが優性思想を持ち出してきたという考え方も、ちょっと違うかもしれません。

 危険な思想が出現した理由のすべてを、特定の時代の特異な個性に帰すのがよいとは思えない。それよりどの社会の誰の心にも、それを抱く素地がある、という認識を持ったほうがよいのではないか。その思想は不死身の生命体のように、はるか昔から雌伏していて、時を得るや人と社会を利用して姿を現し、猛威を振るい、やがていずこかへ姿を消して復活の時を待つ――そう考えるのが適切であろう。科学者が思想を生み出したというより、思想が科学者を宿主とし、科学を武器に利用したのである。 


 お見合いや結婚相談所の釣り書きなども、優性思想が反映されているような気がしなくもありません。

 それから、“正しいこと”を強く主張している人が、周囲に暴言をまき散らして暴力を振るっている例もあり、以下の文章が響いてきました。
 「多様性が大事」と主張しているにもかかわらず、他の意見をひどく攻撃しているケースも見ています。
 多様性の尊重は現代の最も重要な価値規範の一つだという。だが多様性を尊ぶなら、原理的に不快や悪や愚かさも許容しなければならない。従って多様性を善と考えたとたんに、また利益を得ようと多様性を目指した途端に、多様性は失われる宿命にある。
 


------- 以下、『ダーウィンの呪い』の引用。太字はクラナリによるもの。

 進化という言葉や、淘汰、ダーウィンなど、生物進化に関係した言葉を聞くと憂鬱になり、ストレスを感じる機会が増えた。いや逆だ。ストレスを感じる内容のメッセージには、たいてい進化やダーウィンがらみの言葉が入っているのだ。
 例えば文部科学省から送られてきた資料には、こんな文字が並んでいる。「教育進化のための改革ビジョン」「進化する国立大学、大学間に競争的な環境を」。
 予算確保と生き残りに必死な大学執行部は、「各部局、各教員はもっと進化を、数値指標の向上を」と叱咤の指令を送りつける。
 就職活動中の学生たちが見ている企業サイトには、「製品や企業の生存闘争をダーウィンの進化論で」「適者生存は真理、滅びる企業は……」「変化できる者が生き残る──このダーウィンの言葉をモットーに私たちは……」。
 ニュースやネットを見れば、「ダーウィンの言うように変化に対応できない企業は淘汰」「進化論に従いビジネスでも適者生存が進むべき」「ダーウィンがそう唱えたように競争原理の下で進化すべき、それで潰れる大学は自然淘汰」と脅迫のようなメッセージが並ぶ。
 まさに「呪い」である。

 みな「呪い」にかけられていて、思いと言葉と態度のメッセージが矛盾する、ダブルバインドな状態なのかもしれない。

 どうやらこの呪いには三つの効果があるようだ。「進歩せよ」を意味する“進化せよ”「生き残りたければ、努力して闘いに勝て」を意味する“生存闘争と適者生存”、そして、「これは自然の事実から導かれた人間社会も支配する規範だから、不満を言ったり逆らったりしても無駄だ」を意味する、“ダーウィンがそう言っている”である。それぞれ「進化の呪い」、「闘争の呪い」、「ダーウィンの呪い」と名付けたい。

 「進化の呪い」は生物学の原理を社会に当てはめて生まれたものではない。初めから自然、生物、社会をあまねく支配し、進歩を善とする価値観として存在していたものである。

マルサス(トマス・マルサス)は、こうした貧困層や下層階級に不利な「生存闘争」(struggle for existence)により、人口増加とその抑制による減少という無限のサイクルが続く、と見なしていた。
(中略)
 ダーウィンは自然選択が作用する個体間の相互作用や環境との関係を比喩的に「生存闘争」と呼んでいるので、これを文字通りの意味だけで受け取ってはならないのである。生存をかけた闘争という文字通りの意味だけでなく、例えば強制や協調行動のような、生存闘争とは対照的な振る舞いも、それが子孫の多寡に関わるならば、ダーウィンの生存闘争に含まれる。厳しい環境に耐えるという意味もあるし、生物が互いに、あるいは環境に依存しているという間接的な意味まで含むのである。

 2017年、日本遺伝学会は用語を変更し、変異(variation)を多様性(ないし変動)に、突然変異を変異(mutation)と呼ぶようになった。変異・突然変異の語を変えること自体には大賛成なのだが、困ったことに遺伝的変異(genetic variation)と遺伝的多様性(genetic diversity)は意味の違う別の語である

遺伝的変異とは、ある種や集団の遺伝子プールに含まれる対立遺伝子やDNA配列の変異のことである。遺伝的多様性とは、集団内、種内、種間、さらには生態系内に存在する遺伝子レベルの豊かさと定義される。

 生物が示す色や形など個体変異の多くは、次世代に遺伝するが、それを司るのが遺伝子で、その遺伝情報を担う分子がDNAである。突然変異はDNAの塩基配列を変えたり、DNAを収める染色体の構造を変え、遺伝的な変異を作り出す。
 特定の遺伝子が存在する染色体上の位置を遺伝子座といい、同じ(相同な)遺伝子座を占める二つの遺伝子のそれぞれを対立遺伝子という。突然変異は異なる対立遺伝子を作り出し、遺伝子レベルの変異やそれを反映した様々な性質の変異を集団に供給する

 個体の出生率と生存率の積を適応度(絶対適応度)としよう。表現型を体サイズとしよう。(1)体サイズがより大きい個体がより適応度が高い場合、それに関与する対立遺伝子の割合が世代の経過とともに増えるので、集団のメンバーは大型化していく。(2)もし中間的な体サイズの個体の適応度が低いとき、集団のメンバーは大型と小型に二極化する。(3)逆に中間的な体サイズの個体の適応度が高いとき、集団のメンバーの平均的な体サイズは変化せず、ほぼ一定に保たれる。これらすべてが自然選択の効果である。この3タイプの自然選択は、それぞれ、方向性選択、分断性選択、安定化選択、と呼ばれる。

 遺伝的な支配を受け、変異を生む性質であれば、このプロセスは必然的に作用する。人間であれ植物であれウイルスであれ、自己複製し、かつ複製時にエラーが生じる存在は、このプロセスから逃れることはできない。変異がある限り、進化はいつでも起きている。

 政財界の雑誌や記事には、現在の生物学ではあまり使われる機会のない用語が生物進化の用語として頻繁に使われていることがある。「適者生存」というのはその代表的なものである。現代の進化学者が封印したはずのこの言葉は、知名度のある経営者や政治家の発言にもたびたび登場するし、著名な本にも出現する。

 ところが、『種の起源』の原書初版には、「適者生存」という言葉は一切出てこないのである。さて、いったいいつ、どういった経緯で、この言葉は登場し、ダーウィン進化論の原理となったのだろうか。
 この言葉が最初に登場するのは、『種の起源』の出版から5年後、スペンサーの『生物学原理』である。「適者生存とは、私がここで力学的な用語で表現しようとしたもので、ダーウィン氏が、自然選択、すなわち生物の闘争における有利な品種の維持、と呼んだものである」。
 ダーウィンは表向きスペンサーを評価する一方、生物学の記述、特に生殖についてはスペンサーの考えをでたらめだと思っていた。「適者生存」の語も無視していた。スペンサーはそれらを同じ意味としたが、実は自然選択と適者生存には大きな違いがあったのである。
 ダーウィンが自然選択を着想する以前に考えられていた類似のプロセスは、有害な変異が除去されるために変化が起きない、とするものであった。現代の考え方に直すと、安定化選択に該当する(38ページ参照)。一方、ダーウィンにとって、自然選択は特定の環境下で有利な変異の維持と不利な変異の除去により、新しい性質を作り出す、創造的な意味を持つものだった。グールドは、「自然選択の創造性こそダーウィニズムの本質である」と述べている。

 『種の起源』でダーウィンは、自然選択の創造性が示す威力をこう強調している。「自然選択は絶え間なく作用する力であり、自然の作品が芸術作品よりも優れているように、人間の弱々しい努力よりも計り知れないほど優れているのだ」。
 これに対してスペンサーが自然選択と同義とした適者生存は、実際にはダーウィン以前に考えられていた類似のプロセスと同じく、劣った変異を除去して変化を止める役目が主で、創造的な作用の意味はほとんど想定していなかった。
 このように適者生存と自然選択は概念が違うので、ダーウィンがそれを無視したのは妥当である。ところが意外なところにそうは思わない人物がいた。ダーウィンの盟友、ウォレスである。ウォレスは自然選択という用語のせいで、それを誰かが目的を持って何かを選ぶような能動的な仕組みと誤解させてしまうことに悩んでいた。そこで適者生存に飛びついたのである。

 ダーウィンの盟友だったトマス・ヘンリー・ハクスリーは、自然選択が適者生存という語に置き換えられたという不運のために、多くの害がもたらされた、と述べている。

 適者生存という言葉が作り出した、進化と適正という概念の結びつき、そして善や良という価値とのリンクは、さらに「闘争の呪い」と融合し、闘争による社会の進歩と貧富・格差の存在、富裕層の特権、さらには植民地支配を正当化する思想を生み出したのである。だが、この言葉が持つん魔力はそれだけではなかった。後の時代に別の恐ろしい社会を招き寄せる役割を果たしたのである。
※「別の恐ろしい社会」とは優性思想

 ダーウィンの無方向で無目的な進化論と、幸福な社会の実現という理想との折り合いをつけようとした人々には、大雑把に2通りの対応があった。一つは、人間社会を発展させる精神活動は、進化と独立に作用すると見なすやり方、もう一つは、ダーウィン進化論を拡大解釈して、それを理想の実現に合致するものだとしてしまうやり方である。

出発点のダーウィンは、ギリシャ時代以来の進化観のうえに、自然選択による無方向の枝分かれ進化という独自の着想を加え、マルサスなどの社会思想やそれまでの生物学の知識を統合して、自然主義科学のもとに進化論を着想した。ダーウィンから天啓を得たゴルトンはヴァイスマンと同じく、進化論からラマルク説を切り離し、自然選択説による定量的な実証科学へと導いた。その遺産を受け継ぐ二つのグループ、かたやピアソンとウェルドンの生物測定派は、統計学による変異と自然選択の記述、それに血縁の遺伝法則を洗練させ、かたやベイトソンのメンデル学派は、実験的手法により進化の遺伝的基礎を構築し、メンデル遺伝と突然変異による進化を唱えた。
 これに対して、スペンサーが広めたネオ・ラマルキズムは米国で降盛となり、オズボーンの定向進化は一世を風靡したものの、ダヴェンポートが発展させた実験遺伝学はラマルク流進化を否定した。そしてフィッシャーが生物測定学とメンデル学派の統合に成功し、築かれた現代進化学の基礎のうえに、ドブジャンスキーが実験遺伝学とジョーダンの自然史研究に基づく種分化説を融合し、現代進化学の体系が成立する。それにJ・ハクスリーが進化の総合説と命名し、その後の分子生物学の発展を経て現代に至るのである。

人間の進化が進歩でないのなら、自らの手で人間の進化を進歩に変えなければならない、と考える人々が現れた。

 ヒトラーの優生政策は米国中の優生学者たちに歓迎された。(中略)
 さらにナチスは恐るべき計画を企て始めた。安楽死による優生政策である。
 だがこれも元はナチスの着想ではない。米国の優生学者や医師らが、障碍者らに対してたびたび必要性を訴え、実施を提案してきたものであった。(中略)
安楽死による優生政策の開始は、その後のホロコーストへの道を開いた。

 1870年代、まだ優生学という言葉を作る前、ゴルトンが人間の進化的改良のアイデアを示したとき、ダーウィンはやんわりと批判し、懸念を述べた。壮大ではあるが、実現不可能なユートピア計画、という印象を受けたらしい。現実問題として、誰が体力、道徳、知性の面で優れているのか、容易には決められないと指摘している。

ダーウィンは、人間の身体や行動などに、品種改良された犬や猫などの家畜と類似した性質があることから、人間は家畜の育種で選抜した友好的な行動と見かけを、人間自身に対しても選択し、進化させてきたと考えていた。つまり人間の進化は自己家畜化だ、というわけである。

ダーウィンのオリジナルな進化論は、原理的に「人種」の存在も、その優劣も否定する。生物は常に変化し、分岐し、そして進歩を否定するからである。そもそもダーウィンは「種」は実在しない恣意的なカテゴリーだと考えていた。皮肉にも本来、人種差別を否定し、人々の優劣を否定する理論が、その逆の役目を果たしたわけである。

 危険な思想が出現した理由のすべてを、特定の時代の特異な個性に帰すのがよいとは思えない。それよりどの社会の誰の心にも、それを抱く素地がある、という認識を持ったほうがよいのではないか。その思想は不死身の生命体のように、はるか昔から雌伏していて、時を得るや人と社会を利用して姿を現し、猛威を振るい、やがていずこかへ姿を消して復活の時を待つ――そう考えるのが適切であろう。科学者が思想を生み出したというより、思想が科学者を宿主とし、科学を武器に利用したのである。

 優生学の思想も、実はゴルトンが創始したものではない。ゴルトンは優生学(eugenics)という名称を、ギリシャ語の「生まれつきのよさ」を意味する言葉(eugene)から採ったが、自身の貢献を強調するためか、ギリシャ時代の話には、あまり言及していない。だが古代ギリシャにおいて、優生学は猛威を振るっていた。
 紀元前4世紀、プラトンは健全な社会を築くために必要な優生政策を、「国家の洗浄」と呼んだ。プラトンが『国家』で提言した政策の要点は、「不適格」な者の排除と「適格」な人間の繁殖であった。プラトンはそれを優れたイヌやウマを選抜する育種になぞらえた。繁殖に関するプラトンの提言は以下のようなものだ。

 スカンジナビア諸国は、進歩的な福祉国家とされているが、1930年代、この改革(優生政策)を進めた社会民主主義政党が、弱視や精神遅滞と分類された何千もの人々に対する強制不妊手術を許可する法律も導入した。

 優生学とその基礎になった進化学が成長し、ナチスの優生学へと至るストーリーは、科学に基づく社会運動から純粋な悪への滑落が、どのように起こりうるかを示している。惨劇の再発を防ぐために重要なのは、滑落を導いた個人の避難や否定よりも、その過程の分析である。優生学運動に従事した人々の大半は、それがナチスの罪過につながる坂道とは知らずに、その時代、その社会、その階級の価値観に従い、正義と善意に導かれて行動しただけであろう。そもそも私やあなたが、今まさに新しい悪魔をそれと気づかず育てているかもしれないのだ。
 ナチスや米国の国粋主義者の印象が強いため、優生学運動は全体主義、あるいは政治的に右派、ないし保守派の活動と考えるのが一般的である。だがそれは適切ではない。右も左も関係がない、というのが恐らく正しい。

 優生学運動を推進していた人々の大半は、自分たちを社会の理想や表現の自由、民主的プロセスへの参加という意識を強く持ち、リベラルで進歩的で、科学への関心が高く、道徳意識の強い人々である。優生学の拡張された功利主義――最大期間にわたる幸福量の最大化は、未来世代に対して現世代は責任を負うという意識とも重なっている。こうした意識を持つ人々は、現代なら言論の自由を重視し、環境問題や差別撤廃への関心が強い層に該当するだろう。

ときとして真っすぐな善は凶器になる。

自由と正義に反する非人道的かつ差別的、強権的な制度は、強権国家でなくても、自由と平等を重んじる人々の手で、正義の名のもとに、民主的に実現しうるのである。ただし、それにストップをかけられるのも、やはり自由と平等、人権の尊重、そして誤りを認め、修正を厭わぬ意志であった。

 過去の優生学運動がそうであったように、個人の自由と平等の追求者は、容易に個人の犠牲と差別を強いるようになるという教訓を忘れてはならない。

 己の無謬を信じる者が改革を進めた社会や組織は悪くなる―― これが優生学の歴史が語る教訓である。社会や人々の「改善」を願うなら、結局最も人間的かつ平凡な方法で ー 様々な価値観・立場の人々との対話と合意を経て、方針を決めたら、頼できる記録やデータ、観察事実をもとに、考え、試し、様子を見て、誤りを正しながら、少しずつ進めるしかない。私たちに必要なのは、大きなプランを進める前に、レンガを一つ置いてみることであろう。

 進化の科学は光と闇が表裏をなす。天使のような悪魔ほど危険な存在はないように、やさしくて役立つ科学、わかりやすくて役立つ科学を装う説明は危険である。特に本来、ひどくわかり難く煩雑な理論を、シンプルにわかりやすく、また面白く言い換えた説明は要注意である。時にそれは自らの偏見を普及し、権力を確保し、思い通りの社会を造り、私やあなたを操る道具になる。
 「ダーウィンがそう言っている」は、最もシンプルでわかりやすく、科学を装う危険な雪面の一つである。

仮に「生物進化では競争で弱者が淘汰される」が事実であったとしても、そこから「競争で弱者は淘汰されるべき」という規範や価値判断を直接導くことは、論理的にできないのだ。
※事実ではない

 人間の精神活動は目が眩むほどに複雑だ。世界は80億の心で溢れているのに、同じ心は一つとしてない。人の心は、ときに首尾一貫しているが、ときに合理性に欠き、二面性を持ち、ときにダブルバインド的であり、矛盾に満ちていてとりとめがない。まさに優生学者がそうであったように--最終的に罪なき人々の大量虐殺を招いた彼らの仕事が一方で、病に苦しむ人々に福音を与え、あらゆる科学に欠かせぬ統計ツールを提供し、農業技術の発展を導いて暮らしを豊かにし、ティラノサウルスで子供たちの心を虜にするように。
 正気と狂気、賢明さと愚かさ、強さと弱さは、いずれも私たちの心と身体の世界にフラットに共存している。
 こうした文化と精神活動の複雑さゆえに、道徳的な性質に自然選択や文化進化が作用したとしても、道徳とその判断基準たる「善」は、多彩で多面的な性質を持つだろう。

そもそも人間の道徳的反応は、負の感情的反応と表裏一体のものかもしれない。

 最高の道徳性を持つ人々からなる社会は、逆説的にディストピアなのである。

 多様性の尊重は現代の最も重要な価値規範の一つだという。だが多様性を尊ぶなら、原理的に不快や悪や愚かさも許容しなければならない。従って多様性を善と考えたとたんに、また利益を得ようと多様性を目指した途端に、多様性は失われる宿命にある。

 人間の持つ知性と美徳の輝きは、確かに生命の進化がもたらした奇跡の一つかもしれない。だが私には、生命、そして人間の美しさ、素晴らしさは、明暗入り乱れ混沌としたまま、どこまでも果てしなく広がり、かつ進化していく、無限の可能性にあるのではないか、という気がするのである。
 そんな矛盾に満ちた人間の一員として、私もあえて最後にこんな「呪い」の言葉を吐こうと思う。
 だってほら、あのダーウィンもこう言っている――「生命は……最も美しく、最も素晴らしい無限の姿へと、今もなお、進化しているのである」。
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