遺伝について、超文系人間がざっくりまとめてみた(2026年1月5日初出、2026年3月15日更新)
子どもは親に似ている……
このことは、古くから知られていました。
洋の東西を問わず、古代にはすでに育種(品種改良、breeding)、つまり生物を人間にとって望ましい性質を持つように、「種」を「育」てることが行われていたようです。
紀元前4世紀、古代ギリシャの哲学者であるプラトンは『国家』で、イヌやウマの育種になぞらえて、次のように提言しました。
最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方の子供たちは育ててはならない
中世のヨーロッパでは、修道院で育種の研究が進められていました。自給自足が原則の修道院では、布教だけでなく、果樹を含めた農作物の栽培、家畜の飼育、工具の製造などが行われたのです。ワインやビールなども修道院で醸造されていました。
オーストリア帝国(現在のチェコ共和国)のブルノという町には、聖トーマス大修道院がありました。フランツ・シリル・ナップが修道院長の頃に、グレゴール・ヨハン・メンデルは司祭でした。
1856年から1863 年にかけてメンデルは、エンドウマメの交配実験を行いました。その結果をまとめて、「植物雑種についての実験」という講演を1865年に行い、翌年にこの講演の内容が論文として学会紀要に掲載されました。論文では、エンドウのそれぞれの形質に対応する細胞内の物質的なエレメント(要素)の存在について記載されていました。ただ、功績が評価されることなく、1864年に亡くなります。
メンデルの法則
○優劣の法則
遺伝子には表現型が現れやすい遺伝子(顕性、優性)と現れにくい遺伝子(潜性、劣性)があり、同時に存在した場合、顕(優)性の形質が表現型として現れる
○分離の法則
親から受け継いだ2対の遺伝子は融合せずに、次の代に伝わる際には分離して、どちらの遺伝子が伝わるかは偶然である
○独立の法則
異なる2つ以上の形質(豆の色と形など)を決める遺伝子は、互いに影響せず独立して次の代に伝わる
1842年に細胞分裂を初めて顕微鏡で観察したとされている、スイスの植物学者のカール・ネーゲリは、メンデルの実験には批判的だったとのこと。
1879年に、ドイツの細胞学者であるヴァルター・フレミングは、細胞核内にアニリン(コールタールの副産物)で強く染まる構造を発見してクロマチン(chromatin、染色体)と名付けました。chromosomeのchromoは色を意味するギリシャ語です。フレミングは、メンデルの実験は知らなかったようです。
また、イギリスの自然科学者であるチャールズ・ダーウィンは、1859年に『種の起源』を発表します。
『種の起源』の初版の出版は一八五九年なので、メンデルの論文の発表よりも後である。しかし、発表した当時は、メンデルの論文はあまり知られていなかったので、(タイトルを知っていた可能性はあるが)読んでいなかったようだ。第一章における誤りの中には、『種の起源』における最大の誤りである「変異の生成の誤り」が含まれているからだ。
『『種の起源』を読んだふりができる本』著/更科功 ダイヤモンド社
※変異とは、同種の個体の間の違い
1869年に、スイスの生理学者のフリードリッヒ・ミーシェルが、包帯についた膿から細胞の核を単離し、核酸を発見してヌクレイン(nuclein)と命名しました。
そして、核酸は水素・酸素・窒素・リンで構成されていて、リンと窒素には決まった比率があることを確認しました。
ちなみに、細胞の核を発見したのは、スコットランドの植物学者であるロバート・ブラウンで、1831年のことでした。ラン科の植物細胞の中の「円形の領域」を、核 (nucleus)と名付けました。ラテン語で木の実を意味するnuxが由来です。
ドイツの医学者のアルブレヒト・コッセルは、核酸とタンパク質に関する研究を行い、1910年にノーベル生理学・医学賞を受賞します。
1900年になって、3人の植物学者(オランダのヒューゴ・ド・フリース、ドイツのカール・コレンスとオーストリアのエーリッヒ・フォン・チェルマック)が、個別にメンデルの見つけた法則を再発見します。メンデルの研究はドイツ語から英語に訳され、多くの人の目に触れることになり、遺伝学誕生の基礎となりました。
コレンスは、1900年の論文でメンデルとダーウィンに言及し、メンデルの法則はダーウィンの進化論に遺伝学上の基礎を与え得ると書いています。
1909年、デンマークの遺伝学者のウィルヘルム・ヨハンセンは、遺伝物質は不明であるとしながらも、それをGenと呼ぶことを提唱しました。Genを語源となって、英語で遺伝子は Geneとなりました。
また、アメリカの生物学者であるウォルター・サットンが、バッタの生殖細胞を用いて染色体を観察し、遺伝の様式を染色体の性質や挙動によって説明する染色体説を1902年に提唱しました。
こうして、遺伝子と染色体の関係が明らかにされてくる中、アメリカの遺伝学者のトーマス・ハント・モーガンは主としてキイロショウジョウバエを用いた研究を行い、遺伝子は染色体上に線状に配列する物質であることを明らかにしました。
遺伝子は染色体上に線状に並んでいます。
2つの遺伝子が異なる染色体上にあるときには、次世代への継承はメンデルの独立の法則に従って分離します。一方、同じ染色体上にあるときには独立の法則に従わず、連鎖の現象を示します。1本の染色体上の遺伝子は一つの連鎖群を形成し、交雑の結果、連鎖している遺伝子の組合せが親と異なる組合せに変わることがあります。この現象が遺伝的組換えです。
新しい遺伝子の組合せ、つまり、組換え型の出現頻度をパーセント(%)で示したのが、組換え価です。組換え価を遺伝子間の距離とし、これを線上に目盛ると、遺伝子が染色体上にどのように並んでいるかを示す染色体地図(遺伝地図、連鎖地図)ができます。
1928年、イギリスの医師で学者のフレデリック・グリフィスは肺炎球菌で実験を行いました。グリフィスは、肺炎球菌の細胞に含まれる物質が、子孫に伝達される遺伝的な変化をもたらしていることを明らかにし、この現象を形質転換と呼びました。
ただ、その物質は何であるかはわかっておらず、当時、遺伝情報を運ぶのはタンパク質だと広く信じられていました。
1940年代には、遺伝生化学や分子遺伝学研究が発展し、遺伝子は染色体をつくる核酸の一種であり、酵素分子の働きを支配して遺伝形質を決定することが明らかにされました。
アメリカの遺伝学者のジョージ・ビードルとエドワード・テータムは、1941年に特定の栄養分を必要とするアカパンカビの突然変異体の研究を行い、「一遺伝子一酵素説」を提唱しました。この仮説は、遺伝子は一つの酵素の構造や働きを支配し、遺伝形質を発現するというものです。
そして1944年、アメリカの分子生物学者・細菌学者のオズワルド・アベリー(エーブリー)、コリン・ムンロ・マクラウド、マクリン・マッカーティの3人の実験で、タンパク質を分解した肺炎球菌は形質転換を起こすものの、DNAを分解した肺炎球菌は形質転換を起こさないという結果が得られ、DNAが形質転換物質であると結論づけられました。
DNAをつくる塩基には、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)があります。
1950年、アメリカの生化学者のエルヴィン・シャルガフは、DNA中のアデニンとチミンの数が等しく、シトシンとグアニンの数が等しいことを発見しました。
1952年にアメリカの微生物学者・分子生物学者アルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスが、T2ファージという細菌に感染するウイルス(バクテリオファージ)の研究を行い、T2ファージの増殖に必要な遺伝情報を持つのはDNAだと証明。遺伝子がDNAの本体であることが確認されました。
アメリカの分子生物学者のジェームズ・ワトソンとイギリスの物理学者・分子生物学者のフランシス・クリックは、DNAの二重らせん構造を発見し、1953年に『ネイチャー』で発表しました。
ワトソンとクリックが提唱したモデルは、DNAはデオキシリボヌクレオチドが結合してできた2本の長い鎖がらせん状に巻いた構造からなるというものです。2本の鎖はAとT、GとCが塩基対になるように結び付いています。
遺伝子の遺伝暗号は、1961年から約5年間をかけて解読されました。解読された遺伝暗号は、DNAの3つのヌクレオチドがコドン(codon)という単位で、1つのアミノ酸を指定するというものす。コドンは64種あり、そのうち61種はタンパク質をつくる20種のアミノ酸のどれかを指定し、3種のコドンはどのアミノ酸も指定しません。
アメリカの生化学者のセベロ・オチョアはmRNAの人工合成 、マーシャル・ニーレンバーグは試験管内でのタンパク質合成、ハー(ハル)・ゴビンド・コラナは遺伝暗号の解読を行い、mRNAコドンが特定のアミノ酸に対応するという遺伝暗号の仕組みが解明されました。
また、コラナは、1970年に、世界初の人工遺伝子の完全合成に成功したと発表しました。
■主な参考資料
かずさDNA研究所
トライイット
ジャパンナレッジ
Wikipedia
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