孤独への処方箋は「ひとりの時間」を作る!? 『孤独の本質』
① 毎日少なくとも15分は大切な人とのつながりに時間を割こう
② 目の前の相手に集中して、マルチタスクをやめよう
③ ひとりの状態を受け入れよう
④ 助け、助けられ、与え、受け取ろう
『孤独の本質』より、一部改変
孤独と宗教。
『宗教の起源』(著/ロビン・ダンバー 白揚社)を読んで、この2つは近しいものではないかと考えていました。
宗教は、私たちの祖先が集団を大きくしながら暮らしていく中で、進化していったと解説されていました。また、その効用として、次が述べられていました。
宗教に積極的な人(ただ礼拝に顔を出す程度ではなく)ほど、多くの人とのつながりを感じ、自分を支えてくれると思えるようだ。その結果、幸福感が増して人生への満足度も高くなる。(中略)支配層の介入とは無関係に、宗教に積極的に関われば幸福感が高まるし、生活のなかで経済的、社会的な浮き沈みがあっても支援が得られる。
『宗教の起源』
「多くの人とのつながりを感じ、自分を支えてくれると思える」の真逆が、孤独ではないでしょうか。
『孤独の本質』(著/ヴィヴェック・H・マーシー 英治出版)では、孤独を以下のように説明していました。
孤独とは、自分が欲する社会とのつながりが欠けているという主観的な感情
ポイントは、「主観的」という点。
一人ぼっちで山にこもって修行している人については、自然や神とのつながり、同じ神をあがめる人たちとのつながりを感じていたら、孤独ではなさそうです。
孤独かどうかを決めるのは、心の安らかさの度合いだ。
大事なのは社会との接点の量や頻度ではなく、人とのつながりの質や、その関係性に対する自分の感情のほうである。
たくさんの人が集まるパーティ会場で孤独になるのは、周りとのつながりを感じられないからかもしれません。たとえ大笑いをしながら盛り上がっていても、内心が安らかでなければ、孤独。
そんな孤独は、「人間にとってほとんど普遍的な経験」と著者は語ります。
他の動物と比べて貧弱な人間がこうして生きられたのは、大きな集団を作る能力が進化したからだと考えられています。
逆をいえば、集団生活を送れない人々は、他の動物に襲われたり、食料を確保できなかったりして生き残れなかったということ。
今を生きる私たちは、「集団の中にいたい」「孤独は嫌だ」と思った人間の末裔なのです。生存本能として孤独に敏感なので、孤独は誰もが体験する、「ほとんど普遍的な経験」ということなのでしょう。
その一方で、ロビン・ダンバーが指摘していたように、集団の中では好き勝手な行動ができないため、私たちにはストレスがかかります。また、集団の中でつながりが感じられなければ、孤独。だから、宗教が発展して、個人の孤独を癒やすと同時に、身勝手な行動を神の力で抑制して、大きな集団を保てる状態が維持できたということです。
ただ、今の日本では、「宗教でつながる」という感覚はあまりにも希薄。むしろ「ちょっとヤバい人」と敬遠されそうな気もします。
それでは、孤独とどのように付き合っていけばいいのでしょうか。
まず、孤独と感じたときに、私たちはパーティなどに参加しがちです。『孤独の本質』にも、次のような例が紹介されていました。
多くの人は、その感覚を「帰属する場所のなさ」だと表現した。彼らは、その感覚になんとか対処しようと試みていた。なんらかの社会活動に参加したり、引越しをしたり。オープンオフィス・スタイルで仕事をしてみたり、ハッピーアワーに飲みにいったり。
ただ、孤独を癒やすことはできないことのほうが多いようですね。
しかし「ここが家だ(アットホーム)」という感覚は得られないままだった。彼らに欠けていたのは、そうした家の基礎となる人間同士の真のつながりだった。
ここが家だという感覚とは、自分が周りから理解されているという感覚だ。ありのままの自分で愛されるということだ。共通の基盤、共通の関心、そしてこだわりや価値観を、本当に自分を大切に思ってくれる相手と共有する感覚のことだ。
アットホーム。
くつろぐ、安らぐということですね。
このアットホームには、「ひとりの時間」が必要なようです。なんだか逆説的ですが。
ひとりの時間を持って心を安らかにすることは、自分自身とのつながりを強め、ひいては他者とのつながりを可能にするために不可欠な要素だ。
自分自身のこだわりや価値観がわかっていなければ、共通点を持つ人が誰なのかがわかりません。
『孤独の本質』では、宝くじに当たった男性の話が紹介されていました。パン屋で仲間とともに働いていましたが、宝くじに当たって大金を得たので、富裕層の住む地域に引っ越しをして、仕事も辞めました。すると孤独になり、生活習慣病が重症化して、健康を損なってしまったのです。
「金持ちは金持ちらしく」と思ってしまったがために、自分らしさがわからなくなってしまったのでしょう。そして、くつろげる時間が失い、病気になってしまいました。
現代の文化を支配しているのは、確固たる個人主義者の物語や自己決定の追求を称揚するような価値観だ。それらの価値観は、人は自分ひとりで運命を決めるものだと告げてくる。こうした価値観があるがゆえに、私が目にしてきたような孤独という反作用を生んでいるのではないだろうか。
私たちの進化の歴史では、現代の生活は異常のようです。
スティーブ・コールは言う。「何が壁になっているかと言えば、私たちが昔から続く人間の初期設定とは異なる生活文化を作り上げてきたことだ。人間の初期設定はリラックスして気楽にしている状態であり、そういう状態ではつながりを築くことに前向きな姿勢がある。しかし現代でそんなふうに感じている人は少ない。ゆっくりと腰を落ち着けて隣人と話すなんてことも一般的でなくなってきている。代わりに、常に効率よく作業を終えることばかりに躍起になっている。だから現在の私たちの状態は、人間をサポートするために生理機能が設計してきたものとは異なると思う」
脱線しますが、高血圧や糖尿病などは、「私たちが昔から続く人間の初期設定とは異なる生活文化」でに塩分や糖質を過剰に摂取しているために、増え続けてきました。「人間の初期設定」は、「食べ物も水もいつ得られるかわからない」なので、体内で塩分や糖質をリサイクルできるようなシステムになっているからです。
話を戻すと、孤独についても、進化の関係でちょっと厄介な状態になっているようです。
慢性的に孤独感を抱いていると、自覚していようがいまいが、多くの人はひきこもりがちになる。孤独感を抱いていると脅威に対する反応が敏感になるため、人を遠ざけることもあれば、良い社交の機会であってもそこにリスクや脅威を感じるようになるのだと、ジョン・カシオポは明らかにした。
私たちの祖先が安全なグループからはぐれてしまった場合、命に危険が迫る可能性があるため、どんな小さな脅威にも防衛的に反応する必要があった。しかし現代でも同じような強い警戒状態でいると、無害である場合や、ともすれば好意的な人や状況すら脅威だと誤解してしまう可能性がある。自己保存モードになってしまうと、救いの手を差し伸べてくれる人も避けたり信用しなくなったりしてしまう。孤独感が長く続いた状態だと、誘いを断ったり、電話に出なくなったりすることもある。
孤独だと感じていたら警戒心が強くなって、周囲に過敏に反応してしまい、結果として孤独になるということですね。皮肉。
孤独はさらなる孤独を呼び、ちょっとしたヒビから完全なる孤立へとつながっていく。こうした状況への解決策は、孤独感を抱いている人に対してパーティに行けとか、「人と一緒にいよう」と伝えて済むような簡単なものでないことは明らかだ。
結局のところ、孤独感から生じる強い警戒状態は自己中心的な現象だとコールは指摘する。孤独感を強く抱いた人は、脅威を感じるあまり自分の心の安全ばかりを気にするようになり、他者を思いやったり心配したりするエネルギーがほとんど持てないのだという。
また孤独には遺伝子も少し関係しているようです。
カシオポらは初めて孤独についてのゲノムワイド関連解析をおこない、2016年に『ニューロサイコファーマコロジー』誌で発表した。彼らは、経験や状況ほどではないにせよ、遺伝子が慢性的な孤独感に影響を与えていることを認めている。
ジョン・カシオポは次のように語っている。「遺伝しているのは孤独感ではなく、つながりの欠如に対する痛みの感覚だ」
では、すでに孤独だと感じている場合、どうしらよいのでしょうか。
「人間は自分の健康や安全以外の多くのことにも価値を置くものだ」とコールは言う。「だからこそ、警戒状態になっている人たちに自分が大切だと思うものに没頭してもらうことは、神経生物学的な観点からするとかなり良い手段であることが分かっている」
先で紹介したように、「自分が大切だと思うものに没頭」するための「ひとりの時間」が必要なようです。
また、社会にとって「私は役に立つんだ」という体験、つまり「奉仕」がつながりを生むとのこと。「孤独感から生じる強い警戒状態は自己中心的な現象」なので、その逆を行こうというところでしょうか。
「奉仕」というのは語感としてはちょっと物々しいのですが、家の周りをちょっと掃除するなど些細なことでよさそうです。しかも、相手は人間である必要はありません。
奉仕の具体的な内容についてはあまり重要ではないとコールは言う。人助けには「最善の方法」や「万能の方法」などない。そのうえ相手が人間でなくても構わない。
孤独であるとき、恵まれない子供たちや高齢者と直接触れ合うようなグループ活動に参加するのは腰が引けるかもしれないが、動物が好きなら動物保護施設でボランティアすることだってできる。環境に関心があるなら、海岸や森を清掃するグループに参加することだってできる。文学が好きであれば、公立図書館で棚を整理するボランティアに参加してもいい。
心からそれを思い、自分にとって意義のあることであれば、どんな形の奉仕であってもよいのである。
人間相手でなくてもいいというところで、なんだかホッとしますよね。犬でも猫でも、自然環境でもいいわけです。
自分自身のこだわりや価値観に基づいて、ちょっと役に立つことをやっていると、同じこだわりや価値観を持つ人とのつながりが少しずつ生まれるのでしょう。
繰り返しになりますが、孤独を癒やすために、最初に誰でもいいからつながろうとするのは逆効果。SNSに投稿する前に、自分自身のこだわりや価値観を把握しておきたいところです。
真に治癒的な相乗効果が生まれるのは、共通の目的を達成するために周りと一緒になって行動を起こすときだ。しかしながら、「少なくともはじめのうち、大切なのは他の人に会うことよりも、目的を見つけて自分より大きな何かに奉仕することだ」とコールは言う。
何か、あるいは誰かの役に立つをことをすると、個人としては健康にもよいようです。さらには、社会にとっても。
結局のところ、人間は社会的な生き物であるため、自分のことばかり考えている状態が正常でないことは身体が知っている。神経生物学的に言えば、だからこそ力を合わせて何かポジティブなことを成し遂げると、脳は報酬を与えてくれる。別の言い方をすれば、良いことをすると良い気分になるのだ。
「目標やミッションに意識を集中することは、孤独な人たちがふたたび物事に積極的に関与する助けとなる。そうして関与することで、自分の脅威となるような人ばかりではないのだと実感できるようになる。その結果、孤独だった人たちも、安心を感じるための社会的関係や社会資本を構築できるようになる」
ここまでを振り返ると、やはり孤独と宗教は関連性があるようにも思えてくるのです。
『宗教の起源』で紹介されていた宗教の"効用"は次のものでした。
〇幸福で、人生に満足できる
〇健康
〇共同体の一員という感覚(帰属意識)が得られる
〇多くの人とのつながりが感じられる
〇信頼が得られやすく、いざというときに助けてもらえる可能性が高い
〇団結を強まる
〇うまく暮らしていける
『孤独の本質』には、次の記述がありました。
孤独感は深い悲しみやさらなる孤立を生む一方で、人とつながり合うこと(トゥギャザネス)は気持ちを前向きにし、創造性を高める。互いが互いのためにいると感じているとき、人生はより盤石に、より豊かに、より活き活きしたものになる。
なんだか、似たことを話しているような……
今の日本では、宗教でつながりを得るのは、なかなかに難しいという印象があります。一方、「自分自身のこだわりや価値観に基づいて、ちょっと役に立つこと」「相手は人間でなくてもよい」なら始められそうです。そのときには、効率などを求めず、誰かと話す機会があれば相手にしっかり集中することが大切なのですね。
※版元の英治出版が、なかなか面白いシステムで出版事業を行っていました。創業者で元社長のインタビューはこちら。
現社長(当時は社員)のインタビューも読みました。
他の出版社がどうしているのかは知りませんが、有名人やSNSのフォロワーが多い人に「こういうテーマで本を書きませんか」と声をかけるようなことは、一切やりません。「時流に乗って」とか「売れそうだから」とかも、一切ない。実際、そうやっていくつも本を出して、ちょっと売れないなと思ったら次々に絶版にする業界のあり方は不思議です。出版社で働く人にも、「出版は文化」だという自負はあると思うんですけど、それを自ら壊している感じがあるというか。
でも、それで「似たような本がこれだけ売れてるから、ニーズがある」「この著者さんは前作が3万部売れてるから、1万部は固い」「IT業界に勤める30代向けに」みたいな感じで企画を立てたとしても、あんまりいい方向には行かない気がするんですよ。建前ばかりで物事を進めてしまうような。
イテテテテ。刺さります。
現在は面白法人カヤックの子会社になっています。
ゲーム開発などを手掛けるカヤックが2月、英治出版(東京・渋谷)の株式を取得し子会社化した。
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