1970年代にすでに言及されていた「若者の読書離れ」 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(著/三宅 香帆 集英社)が、かなり話題になりました。
実際に読んで印象に残ったのは、本の立ち位置。
まず、句読点が使われるようになったのは明治のことで、きっかけは音読から黙読へと変わったことなのだそうです。
黙読は日本語の表記も変えた。(中略)そうして普及したのが句読点である。句読点の使用が急速に増加したのは明治10年代後半~20年代のことだった。
そして、明治からヒットしていたのは、自己啓発系の本だったのですね! 文芸ではないというのが、意外です。
明治時代、まだ読書はインテリ層の男性のものだった。
『西国立志編』– イギリスのスマイルズの著作を中村正直が翻訳した書籍が、明治初期に大ベストセラーとなる。(中略)明治末までに100万部は売ったらしい。
※現在では『自助論』というタイトルで売られていて、「自助努力」がテーマで、さまざまなサクセスストーリーが掲載されている
※『学問のすすめ』は公的な流布も行われたためにヒット(著者曰く、教科書を無理やり学生に買わせる教授の手法)
明治時代後半、「修養」を説く書籍や雑誌がブームとなる。
※自己啓発チックなビジネス雑誌
また、最近のアマゾン本ランキングでスピリチュアルがかなりランクインし、やれやれと思っていたら、大正でもスピ本が流行していたと知りました。昔から、日本人はこういう内容が好きなのですね。
さらにこの時代、時間もあり読書への意欲もある、「大学生」という身分の青年が増えた。
サラリーマン=物価高騰や失業に苦しむ人々、という図式が社会に定着していた。
「立身出世」を目指した明治の若者たちの行く末がこんなところにあったなんて、いったい当時の誰が思っただろう。そりゃ、どの本も暗い内容であるのもさもありなん。こんな状況じゃ、スピリチュアル小説も貧困層の小説も流行るよな……と妙に納得がいってしまう。
※大正にはスピリチュアルと社会主義の本が売れた
図書館についても、「国民の識字率を下げない」という国力アップが理由で建てられたようで、なんだかなあと。
日露戦争後、国力向上のために全国で図書館が増設された。小学校を卒業した人々の識字率を下げないために採用された手段が、読書だった。
「本は文化だ」と主張する人もいますが、売れなければ本は作られないわけで、やっぱりビジネスなのです。「安い本を大量に刷って売る」という現在のビジネスモデルは、大正に生まれたようです。
大正末期–出版界はどん底にあった。
そんな出版界に革命を起こしたのが、「円本」だった。それは倒産寸前だった改造車の社長がイチかバチかの賭けに出た結果だった。1926年(大正15年)12月、つまり対象の終わり、昭和になるとともに突風のようにはじまった「円本」ブームは、日本の読書を変えたのだった。
※全巻一括予約制、月額払い、破格の金額、安さを初版部数の多さで補うという大博打
※読むためでなく見せびらかすための本(「教養がありますよ」というアピール手段)
用紙代やインク代などの原材料費が高くなった昭和に文庫が普及しました。
1951年(昭和26年)、戦時中から続いていた用紙の割当制が、ついに廃止された。すると統制が解かれた紙価は高騰した。
現在まで続く「文庫」の普及もこの時期だった。紙が高くなり、とにかく少ない紙で本を発行するために考えられたアイデアが、すでに売れている本の文庫化–単行本より小さいサイズでの刊行–だったのである。なんとも商売魂のこもった話だ。
忙しい高度経済成長期のサラリーマンに、本を買ってもらうためにはどうしたらいいだろうか。(中略)インテリ向けの岩波新書に対抗し、「インテリとは違う、新たな読者層を掘り起こす」ことを狙って、カッパ・ブックスレーベルから刊行された。
文庫版『坂の上の雲』がベストセラーになったのは1970年代。
高度成長期を終わらせたと言われるオイルショックの最中、文庫創刊が相次ぎ、さらにテレビという新しい娯楽が影響力を持っていた時代のことである。
出版不況がまだ2025年の今も続いていますが、なんと、50年前から兆候があったようです。
ただ、日本の人口が増えていたために、ミリオンセラーが登場していました。
1970年代から言及され始めた「若者の読書離れ」という言説は、80年代にはすでに人々の間で常識と化していた。
1985年(昭和60年)のプラザ合意からはじまった「バブル景気(バブル経済)」の好景気に日本社会は沸いた。そして世間と同様、出版業界もまた、バブルに沸いていた。
ミリオンセラーが連発される一方、実は1世帯あたりの書籍購入金額は、1970年代末期と比べ1980年代には少なくなっていた。
ならばなぜ、80年代にこんなにもミリオンセラーが登場していたのか。
それは単に、人口増の恩恵だった。
明治でもそうでしたが、本については「仕事」さらには「自己実現」「階級」と絡みつくケースが少なくないようです。
読書は常に、階級の差異を確認し、そして優越を示すための道具になりやすい。
趣味で自己実現してもいい。子育てで自己実現してもいい。いいはずなのに、現代の自己実現という言葉には、どこか「仕事で」というニュアンスがつきまとう。
「好き」を活かした「仕事」。そのような幻想ができたのは、1990年代から2000年代のことだった。その背景には、日本にもやってきた新自由主義改革があった。
労働者の実存は、労働によって埋め合わされるようになってしまった。これ以前だと、本書で見たように、学歴のない人々が本を読んだりカルチャーセンターに通ったりして「教養」を高めることで自分の階級を上げようとする動きもあった。だが、新自由主義改革のもとではじまった教育で、私たちは教養ではなく「労働」によって、その自己実現を図るべきだという思想が与えられるようになってしまった。
文脈も歴史の教養も知らなくていい、ノイズのない情報。あるいは社会情勢や自分の過去を無視することのできる、ノイズのない自己啓発書。それらはまさに、自分の階級の低さに苦しめられていた人々のニーズにちゃんと応えていた。
もはや数少なくなってしまった読書する人々のなかでも、読書を「娯楽」ではなく処理すべき「情報」としてとらえている人の存在感が増してきているのだ。
仕事が自己実現と絡みついた場合に、マルクスがいうところの「労働力の維持・再生産」レベル以上に、資本家ではなく労働者が自らを酷使する状況になっていると指摘されています。
ハンが名づけた「疲労社会」とは、鬱病になりやすい社会のことを指す。それは決して、外部から支配された結果、疲れるのではない。むしろ自分から「もっとできる」「もっと頑張れる」と思い続けて、自発的に頑張りすぎて、疲れてしまうのだ。(中略)新自由主義社会では会社に強制されなくとも、個人が長時間労働を望んでしまうような社会構造が生まれている。
日本はヒロイックなまでに「無理して頑張った」話が美談になりがちではないだろうか。高校野球とか、箱根駅伝とか、情熱大陸とか……挙げればきりがない。
しかし「燃え尽き症候群」つまりバーンアウトは、鬱病に至る病である。
『疲労社会』が指摘したように、私たちは自ら仕事を頑張ろうとしてしまう社会に生きている。仕事で自己実現を果たしている人が、キラキラしているように見えてしまう。しかし一度仕事を頑張ろうとすると、仕事はトータル–つまりあなたの「全身」のコミットメントを求める。仕事はできる限り仕事に時間を費やすことを求めてくる。現代社会は、働くことのできる「全員」に「全身」の仕事へのコミットメントを求めている。
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