回帰する未来。例えば書肆スタイル
江戸時代は「出版社」「取次」「書店」という区分けははっきりしていなかったようです。印刷・古書店・貸本屋や、ほかの業者に書籍を流す卸業も兼ねていて、書肆(しょし)、書林、絵草紙店などと呼ばれていたとのこと。販売品目も本だけでなく、浮世絵、双六やかるた、暦、瓦版など、かなりバラエティに富んでいました。
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絵草紙店(『画本東都遊』より、出典:東京都立図書館) |
ちなみに、「肆」は店という意味だそうです。
いち‐ぐら【肆】〘 名詞 〙 ( 古くは「いちくら」。市座(いちくら)の意。座(くら)は財物を置く所 ) 古代に、市場で売買や交換のために、商品を並べて置いた所。市の蔵。のちに、商いの店。〔新訳華厳経音義私記(794)〕
日本国語大辞典
し【肆】[漢字項目][音]シ(呉)(漢) [訓]ほしいまま みせ1 かって気まま。ほしいまま。「放肆」2 みせ。「酒肆・書肆」3 数字「四」の大字。「金肆拾万円」
デジタル大辞泉
今後の出版業界は、書肆スタイルに進んでいくと思うのです。
大手の出版社はもちろん残るでしょうが、実用書・雑誌ベースのところは減っていき、代わりに江戸時代の書肆のように区分けのないスタイルが、東京一極集中ではない形であちことにできるのではないでしょうか。
また、出版社や取次といった区分けだけでなく、「紙かウェブか」もなくなって両方を採用するスタイルでもあります。
後者のほうは、数多くの出版社ですでに取り組まれていますよね。出版社のサイトで本以外のグッズを売るところは、大小問わず、たくさんあります。
基本はウェブで、どうしても活字で読みたいと思うものだけをオンデマンドで印刷・製本するという手法も出てきています。
買い手である読者の好みに合わせて、本文やカバーをデザインすることも、現在の技術だと可能かもしれません。もちろん、値は張りますが。
『クラナリ』編集人については、幼少期に母親が新刊書店を起業し、自分は大学卒業後に出版社に就職しました。
実は、自分が教育書の編集を担当した著者(同世代)も、母親が新刊書店を起業したのだと話していました。
再販制度・委託制のおかげで、主婦が新刊書店を営むことも可能だったのかもしれません。もちろん、当時の状況は。
一時期は、駅前には必ずといっていいほど、個人経営の新刊書店があったものです。
そのようなわけで、半世紀ほど、再販制度・委託制の上に成り立ったシステムで動いてきた『クラナリ』編集人です。ただ、システムのほころびを肌で感じざるを得なくなり、業界の底辺にいる者として人生100年時代での身の振り方を検討していました。
それで、なぜ書肆スタイルに進むと考えたかというと、今の日本のシステムが特殊だったからです。
まずは、江戸時代から今までの出版業界の変遷を見ていきましょう。
冒頭で述べたように、江戸時代は「出版社」「取次」「書店」という区分けははっきりしていなかったようです。
明治の初期も、出版社が小売書店でもあったとのこと。それが雑誌や書籍の発行点数が増えたことで、卸業を営む会社ができてきました。
また、1872(明治5)年に学制(学校制度を定めた基本法令)が公布されて全国各地に学校が作られると、教科書を販売する書店が現れます。そして1886(明治36)年に小学校の教科書に検定制度が設けられると、教科書販売のルートが確定していきます。
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『小学算術書』(出典:愛知県図書館) |
出版社と書店の間をつなぐ卸売業の取次は、1878年に誕生しました。
1908(明治41)年に書籍の委託制を初めて行った出版社は大学館で、翌年には実業之日本社が『婦人世界』という雑誌で委託制を採用しました。
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『婦人世界』(出典:日本の古本屋) |
資料がないのですが、おそらく、委託制を取り入れたことで、買切制の頃よりも本が売れるようになったのではないでしょうか。理由としては、売れなかったら返品できるので、書店も気軽に取り扱うようになり、広く行き渡っていったことが考えられます。
委託制になったことで、『クラナリ』編集人の母親のように、新刊書店を起業する人が増えたのでしょう。明治末期の書店数は3000店でしたが、昭和初期には1万店を超えるほどだったのだそうです。
また、明治の終わりから大正にかけては、雑誌も書籍も取り扱う「大取次」が登場したようです。
なお、著作権使用料の支払いに、印税というシステムが取り入れられたのは、明治とのこと。
1886年に、小宮山天香が『慨世史談・断蓬奇縁』という翻訳本を出版する際に、鳳文館という出版社と交わした契約が、日本で最初の印税とのこと。このシステムは、19世紀にヨーロッパで行われていたそうです。著作権者が書籍に1冊ずつ、押印した印紙を貼り(検印)、発行部数の証拠としていました。
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『断蓬奇縁: 慨世史談 (リプリント日本近代文学) 』(出典:アマゾン) |
大正は、経済の波が大きく、1914~1918(大正3~7)年の第一次世界大戦で日本は好景気になりましたが、戦後に一気に不況となり、1923(大正12)年には関東大震災が起こりました。
日本経済が停滞する中で、出版業界も深刻な不況に陥ったのです。
その対策として生まれたのが、「円本(えんぽん)」。定価1冊1円という廉価で出版された全集や双書類のことです。改造社が企画した円本の第1号は『現代日本文学全集』でした。1923(大正12)年の配本です(1926年という説も)。
これが大当たりして、各出版社から次々に円本が出版され、大正の終わりから昭和初期にかけて円本ブームを巻き起こりました。
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『現代日本文学全集』(出典:日本の古本屋) |
1929(昭和4)年にアメリカから世界恐慌が起こり、日本も経済的に深刻な状況に陥りました。昭和恐慌です。
恐慌の打開策として、日本は中国などへ軍事進出する方針が取られるようになり、軍部の発言力が増していきました。
1931(昭和6)年の満州事変の頃から日本の言論統制は厳しくなっていき、1941(昭和16)年には国策会社「日本出版配給株式会社」が設立されて、全国の取次業者はここに統合されました。
1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まりました。2年後の1943(昭和18)年には、国家総動員法に基づく出版事業令が公布され、すべての出版活動が情報局の統制下に置かれました。そして3395社あった出版社が、翌年には雑誌部門996社、書籍部門203社、計1199社にまで減りました。
1年で、出版社の数が3分の1になってしまったのです。
1945(昭和20)年に終わり、GHQは日本の民主化を進めました。言論の自由を促すために、出版社は自由に創業できるようになりました。
1949(昭和24)年には全国出版協会(全協)が設立され、日本出版販売株式会社(日販)が創業しました。
戦後、経済的な発展を遂げると同時に、読書人口も増加しました。また、印刷技術が発達して、発行点数と部数が安価に増やせるようになったのです。
こうして、雑誌や書籍は「売れそうだ」と見込んだら大量に発行するようになり、委託制のおかげで全国の書店もそれらを気軽に引き受けました。
大量に発行しても売れなければ大量の返品が生じます。出版社は返品リスクを負うのですが、金融面で取次が助けました。
これでうまく回っているように見えていたのですが、1995(平成7)~2000(平成12)年にインターネットが普及し始めます。音声や文字など、大量の情報を素早く、多くの人に届けられるツールができてしまったのです。
2011(平成23)年はスマホ(スマートフォン)が普及しました。
その影響もあって、出版物の販売実績は1996(平成7)年の約2兆6000億円をピークに右肩下がりとなったのです。
2024年現在は、デジタルコンテンツ化できるものは、どんどんその方向で進んでいます。「どうしても紙媒体でなければ」「紙媒体のほうがうれしい」というもの、例えば文芸や絵本、専門書、写真集、デジタルになじんでいない高齢者向けなど、特定のジャンルに絞られる形で、出版はスリム化していくのでしょうね。
自分は漫画はデジタルでいいのですが、文芸は紙で読みたい派。体系立てて学ばなければならない場合に読む専門書は、断然、紙。
ウチのデジタルネイティブZ世代は、漫画も紙にこだわる派。
その流れが続くとしたら、未来は書肆スタイルに回帰するのではないでしょうか。「出版社」「取次」「書店」と分業せず、効率化を求め過ぎない商いの出版に戻るのです。
ちょっとそんな未来を思い描いて、「だったら、自分は何をしたいのかな」と考えてしまいました。楽しい妄想。
■参考資料
国立公文書館
日本の出版取次構造の歴史的変遷と現状
戦時統制とジャーナリズム 1940年代出版メディア史 吉田則昭 (2010年6月14日)
(2)インターネットの登場・普及とコミュニケーションの変化
出版業界が不況なのは「読者を見てない」から? 読者に寄り添えば、今でもブームは生み出せる
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