『ホモ・デウス』と、「無用者階級」としての私

 『ホモ・デウス』の上巻は、きちんと読み切れませんでした。

 人間とその他動物との関係について延々と書かれているのですが、今を生きる私にはなす術がないというか、「人間様」で生きていくしかないわけです。



 例えば、子どもと親との愛着関係は重要と人間では言われているのに、牛や豚だと生まれてすぐに母親から引き離されて飼育されます。こうした育った牛や豚を食べて、私は生活しているのです。



 ひどいことをしていると思います。その一方で、ベジタリアンにはなれず、牛や豚はこれからも食べて生きていきます。

 ですから、『ホモ・デウス』上巻を読んでいる途中で、「人間様」をやめない自分がきつくなってくるんです。

 

 「神の下ではすべての生物は平等」とは考えない人間至上主義。

 そのベースは、人間には生きる権利が与えられ(他の動物はその権利がない)、一人ひとりが大切であるという考え方と言えるでしょうか。







 ところが、未来には人間が価値を失って、個人としての権威を失い、外部のアルゴリズムに管理される。さらに人類が生物学的カーストに分割され、ほとんどの人が劣等カーストになる可能性があると『ホモ・デウス』の下巻に書かれていました。



 データ至上主義。



 血糖値や血圧、心拍数など生命活動が計測されてデータ化されると、「数値を通しての自己認識」(下巻164ページ)がなされるようになります。その一つとして、血糖値をずっとモニタリングする装置。このデータで自分が健康か糖尿病かがわかるわけです。「いつも調子がいいなあ」という感覚や意識は置いておいて。



 将来は、「あの男性と会って、私の血圧が上がって心拍数が増えてドーパミンが分泌されているから、私は彼が好きなんだ」などと、好悪すら数値を通して認識されるかもしれません。



---

外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能になるかもしれない。もしそうなれば、個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへと移る。

---下巻162ページ



 人間の営みがパターンとして認識されたら、そのデータを人間よりもはるかに大量に蓄積して処理できるAIが、人間の代わりに仕事をすると考えられます。

 すると、どんな未来が待ち受けているのでしょうか?



---

二一世紀には、私たちは新しい巨大な非労働者階級の誕生を目の当たりにするかもしれない。経済的価値や政治的価値、さらには芸術的価値さえ持たない人々、社会の繁栄と力と華々しさに何の貢献もしない人々だ。この「無用者階級」は失業しているだけではない。雇用不能なのだ。

---下巻157ページ



---

現在子供たちが学校で習うことの大半は、彼らが四〇歳の誕生日を迎える頃にはおそらく時代遅れになっているだろう。従来、人生は二つの主要な部分に分かれており、まず学ぶ時期があって、それに働く時期が続いていた。いくらもしないうちに、この伝統的なモデルは完全に廃れ、人間が取り残されないためには、一生を通して学び続け、繰り返し自分を作り替えるしかなくなるだろう。大多数とまでは言わないまでも、多くの人間が、そうできないかもしれない。

 やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう。だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか? 人は何かする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる。彼らは一日中、何をすればいいのか? 薬物とコンピューターゲームというのが一つの答えかもしれない。必要とされない人々は、3Dのバーチャルリアリティの世界でしだいに多くの時間を費やすようになるかもしれない。その世界は外の単調な現実の世界よりもよほど刺激的で、そこでははるかに強い感情を持って物事にかかわれるだろう。とはいえ、そのような展開は、人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念に致命的な一撃を見舞うことになる。夢の国で人工的な経験を貪って日々を送る無用の怠け者たちの、どこがそれほど神聖だというのか?

---下巻158-159ページ



 AIに置き換えられない仕事をするごく少数の人間が、現在の人間としての生活を営み、大多数の「無用者階級」は、現在の牛や豚などの家畜と同じようなカーストに入れられるということでしょうか。



 「無用者階級」にはやることがないから、腐る気持ちを薬物でコントロールして、コンピュータゲームで時間をつぶす未来が待っているのでしょうか。



 また、遺伝子工学などで人類を「神」にアップグレードする試みによって、一部のホモ・サピエンスは「ホモ・デウス」になるだろうと、本書では書かれていました。

 同時に、そんな未来をあなたは迎えたいですかと、著者は私たちに問いかけているのです。



 ところで、ネット業界で仕事をしていたときに、「グーグル神」を実感したことがありました。

 健康ニュースサイトは広告収入に依存しているので、グーグルで検索されやすいように言葉を配置しながら原稿を作るわけです。

 あるとき、グーグルが方針転換をして、原稿に使われている言葉ではなく、情報を出している機関を重視されるようになりました。よくわからないサイト運営会社ではなく、大学の医療機関のページが、検索上位に来るように操作したのですね。

 結果、健康ニュースサイトの訪問者数が激減し、比例して広告収入も激減。これではいかんと、その会社は方針転換を余儀なくされました。グーグル神のお告げにより、行動を変えたというわけです。



 サイト運営会社のみならず、私たちの暮らしも生業も、グーグル神のお告げがすべてなのでしょうか?



 「無用者階級」の私としては、これまでの約50年の人生で得た経験をもとに、グーグル神を疑いながら生活するという、面倒くさい人生を歩むことになりそうです。

 
Powered by Blogger.