"虫殺し"の645年は、大化改新ではなく乙巳の変
大化改新については、テスト対策で、語呂合わせで年号を覚えた。蘇我氏が悪者扱いされていた……。そんな薄い印象しかありませんでした。
古代の日本の政治など、戦国時代や江戸時代とは違ってドラマでも扱われないので、今一つピンと来ないのです。
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乙巳の変。江戸時代、住吉如慶・具慶の合作によって描かれたもの。左上は皇極女帝。談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市) |
そのようなわけで、古代日本には興味のないままに数十年を過ごしてきたのですが、小さな転機が訪れました。
真間の手児奈です。言い伝えに納得できない点が多く、手児奈が生きた時代について調べ始めたのでした。
結果、701年に完成した大宝律令の行政区分などが江戸時代まで使われてきただけでなく、私たちになじみの深い地名なども古代から引き継がれてきたものだとわかりました。
こうした流れの中で読んだ一冊が『「大化改新」隠された真相 蘇我氏は本当に逆臣だったのか?』(著/谷口 雅一、ダイヤモンド社)。
絡んでくるのは、「信用ならない」と評判の『日本書紀』です。
『日本書紀』は、元正天皇の養老4年(720)に完成したとされるわが国最初の勅撰国史(天皇の命で編修された国の歴史)。撰者(編者)は天武天皇の皇子の舎人親王(とねりしんのう)ですが、ほかに紀清人(きのきよひと)や三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)らが編纂の実務を担当しました。
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/02.html
『日本書紀』には、天皇をないがしろにした豪族の蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が暗殺し、天皇中心の中央集権体制を整えていったと記述されています。そんな歴史的出来事である「大化改新」。
当然のことながら、歴史書というものは後の権力者にとって都合のいいように作られるものです。蘇我氏=悪、中大兄皇子・中臣鎌足=正義という単純な話ではありません。
研究者でも「大化改新」についての解釈が異なっているものの、「単純な話ではない」という点では一致しているようです。
『「大化改新」隠された真相 蘇我氏は本当に逆臣だったのか?』では、NHKの番組を下敷きに、「大化改新」の真相を著者が探っていきます。ちなみに著者はNHKディレクター。
この本には、教科書における「大化改新」の説明も、過去と現在では異なっていると書かれていました。私たちが「大化改新」として習った645年は、乙巳(いっし)の変というクーデターになっているようです。
奈良県高市郡にある甘樫丘(あまかしのおか)という丘陵。ここは蘇我氏の軍事拠点で、現在、発掘作業が行われています。
NHKの番組では、発掘内容から軍事拠点としての性格を確認するとともに、その位置の特殊性に着目します。蘇我氏の軍事拠点は奈良県高市郡の飛鳥寺にもあり、甘樫丘と飛鳥寺は、当時の都である飛鳥京を守る要塞の役割を果たしていたように見受けられるとのこと。
この構造と似ているのが、同時代に朝鮮半島にあった百済の王都である扶余(プヨ)。
百済は、中国大陸の唐と、朝鮮半島の新羅から圧力を受けていました。
中国については、秦・漢の時代に「中華思想」が生まれていました。隣国よりも中国が素晴らしく、世界の中心は中国の都で、周りはそれに従うべきだというような考え方です。
朝鮮半島では4~7世紀頃に高句麗、百済、新羅の3国が争っていて、中国では隋が618年に滅び、唐が誕生しました。
東アジアの動乱や抗争は、日本海を隔ててすぐにある日本(倭)にも影響があると蘇我氏は考えました。飛鳥京の防衛力を固めた上で、遣唐使を派遣するなど外交によって唐との関係をよくしようと努めたようです。
そんな蘇我氏は、反対勢力である中大兄皇子と中臣鎌足によって暗殺されました。蘇我蝦夷・入鹿が殺されたのは、中大兄皇子が将来的に天皇の座に就くには障害になるからです。
660年、百済が唐と新羅によって滅ぼされると、日本では百済復興運動が起こりが663年に参戦。しかし、白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦いで日本は敗れます。
白村江の戦いについては、唐と日本との技術力に大きな差があり、日本ボロ負け。
おそらく中大兄皇子は唐をなめていたのでしょう。それが白村江の戦いでようやく「唐って、怖いぃ!!!」という恐怖心が中大兄皇子に生まれ、唐の侵略を防ぐために日本の中央集権化を推し進めたとのこと。地方の豪族に任せるのではなく、中央が直接民衆を支配して、防衛力アップに励んだということです。
蘇我氏がやろうとしていた中央集権化を、中大兄皇子が後追いの形で行ったことが不名誉で、『日本書紀』は事実と異なることが書かれてしまいました。
この本では、言語の面から『日本書紀』の分析を行っています。大化改新に関連している記述が、後から編集・改竄されたことが、古代中国語の研究者から指摘されていること。要は、一部だけ言葉遣い(音韻・語法)が変で、時代が入り混じっている状況のようです。
ちょっとレベルが違いますが、昭和初期に書かれたとされる文章に「マジ卍」という言葉が入っているというような状況。
「改新の詔」が発せられて一気に律令制が進んだという『日本書紀』の記述は、後世に行われた捏造というわけです。
もちろん「諸説あり」ですが、数十年前に教科書に載っていた内容については、定期的にアップデートしていく必要がありそうです。
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