狩猟に防犯、食用、愛玩、祭祀と、古代のイヌにはいろいろな役割があったようだ  企画展「遺伝子からみた古代のイヌ」

 奈良時代に、国府台にあった「下総国府」という役所で、イヌ、ウシ、ウマが飼われていた可能性があるようです。これらの動物の骨が、企画展「遺伝子からみた古代のイヌ」で展示されていました。
 どのような理由で飼育されていたのでしょうか。人類と動物の歴史とともに、経緯を素人が勝手に推測してみました。

 イヌを人類が飼うようになったのは、およそ1万5000年前なのだそうです。ですから、人類が移動すれば、イヌも一緒についてきたと考えられます。

 日本だと、約7300~7200年前の縄文時代早期末から前期初頭に、イヌが埋葬された最も古いケースが報告されています。
 縄文時代に日本にいた「縄文犬」は、縄文人とともに南方から日本列島に移住してきたとされています。丁重に埋葬されていたため、狩猟犬や番犬だったのではないかと考えられているようです。

 「弥生犬」は、弥生人(渡来人)と一緒に朝鮮半島経由で日本列島にやってきました。そして、稲作文化だけでなく、イヌを食べる習慣が持ち込まれました。そのため、弥生犬の骨には解体した痕跡が残っています。
 今の私たちの生活からはちょっと想像できないのですが、食べるためにイヌを飼っていたということですね。

 また、古代中国では、祭祀でウシやイヌなどの動物を生贄(いけにえ)にする風習がありました。この風習も日本に入ってきたようです。

 ウシも、弥生人によって持ち込まれたのですが、こちらは食用としてではなく、主に農耕・運搬に使われていました。 

 ウマについては、縄文・弥生時代には日本列島にいなかったと考えられてきました。ウマの飼育という新しい文化が朝鮮半島から持ち込まれたのは5世紀前後の古墳時代中期。ウマの形の埴輪も残っています。ちなみに、  「縄文馬」がいたという説もあるそうです。
 ウマは乗って移動するための動物で、食用を目的として飼われていたわけではなさそうです。

 ウシもウマも、弱ってきて農耕・運搬・騎乗に使えなくなったら、食べられたのでしょう。675年には天武天皇がウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリを食べることを禁じたことからも、イヌやウシ、ウマを食べる風習があったことがわかります。

 現代のようにペットとしてイヌが飼われていたと考えられているケースもあります。729年の長屋王の変で知られる、長屋王。天武天皇の孫に当たる人物で、長屋王の邸宅跡からは、「犬司」というイヌの世話係がいたとのこと。
 それから、この頃には狂犬病が発生していたのではないかと考えられています。717年に発布された「養老律令」に、狂犬 (たぶれいぬ)を殺処分する規定があるからです。平安時代が舞台のマンガ『応天の門』にも、狂犬病が登場しました。
 


 ウシとウマは、今のように柵で囲った場所で放牧したわけではなく、いわゆる放し飼いだったようです。岡山県畜産史には、 役所の家畜に関する規定である厩牧令(くもくりよう)などの内容が紹介されていました。以下の文中の「牧(まき)」とは、ウシ・ウマを放牧しておくための区域です。
 『大宝律令』発布後,天長10年(833)の『令義解』の中で,牧畜に関する事項に「厩牧令」がありそのうち放牧地の組織,放牧法,放牧地の維持管理について,次の定めが見られる。
  第5条 群頭数と看視人の配置 牛馬とも雌雄あわせて100頭をもって1群とし,各群に牧子を2名置き,又牧の長と牧の書記を1名ずつおくこと。
  第6条 群の構成 1群となる100頭は,3歳以上の雌牛,4歳以上の雌馬に雄牛馬を各1頭加えて構成する。
  第11条 火入れ 毎年正月以後に一方から放牧地に火を入れ,草生を万べんなくするように管理する。

平安朝時代には,馬が牧の外に放馬して民業に損害を与えるので隔障物を修理させ,つねにこれを検査せよという令を出しているが,ついに『延喜式』が制定される7年前の920年に「牧は必ず隔障物で囲み,牛馬が田畝の間に放散して農業その他に損害を与えないように巡回看視するように」との示達が出されている。これらのことから,隔障物の設定は,厳しく律していたことが推察される。

 話を企画展「遺伝子からみた古代のイヌ」に戻すと、須和田遺跡から発掘された11頭のイヌの骨は、8世紀後半のものとのこと。

須和田公園にある須和田遺跡の案内板

 そのうちの7頭のDNAを調べたところ、毛の色も耳の形も異なるイヌだったのだそうです。
 推測すると、当時、ウシ・ウマだけでなくイヌも貴重で、いろいろな地域から役所(下総国府)にわざわざ連れてこられて、飼育されていたのかもしれません。
 また牧畜犬として、イヌがウシ・ウマの放牧を手伝うこともあったのでしょうか。

 古代のイヌには、狩猟や防犯、食用に愛玩、祭祀と、いろいろな役割があったようです。

 時代は下り、平安時代末期になると、今の私たちとイヌとの関係に近くなったようです。絵巻物「信貴山縁起絵巻」にも、イヌが描かれています。ちょっかいをかけたりしている男性の笑顔から、この頃には庶民にとってイヌがとても身近な存在だったことが伝わってきます。

「信貴山縁起絵巻」Wikipediaより

■参考資料
企画展「遺伝子からみた古代のイヌ」展示内容

日本愛犬史

狂犬病:その歴史と現状ならびに防疫対策

季刊大林 日本人と食、農業の歴史

習志野市シティセールスサイト No.112 平成21年2月1日号 ウシ

"縄文馬" はいたか - 名古屋大学学術機関リポジトリ

岡山県畜産史 第2編 第6章 第1節 牧野および飼料作物

奈良文化財研究所

日本大百科全書
伝馬てんま

道中の各駅・宿などに備えて公用輸送にあてた馬。大化改新(645)により国府と郡家を連絡するため、各郡家に伝馬という官馬が用意され、その員数は毎郡各5とされた。利用者は格別の規定はないが国司、流人、防人(さきもり)などであり、乗用資格証明は伝符による。伝馬は官馬から選ぶが、民間から購入する場合には郡稲(ぐんとう)による。これに対し、諸道の駅家に備えて駅使の乗用に供した馬が駅馬である。
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