どうして「わかりにくさ」が発生するのか その4 ありのままの自分を自由に表現すると、わかりにくい文章になる
文章の「わかりにくさ」が発生するのは、「人間はわかり合える存在」だと思い込んでいることが原因。
そしてもう一つの原因は、無防備に文章を書いていること。無防備に文章を書く人は、話すことと書くことを混同しています。話すときには、言葉以外に表情や手の動きなどでもコミュニケーションを取っています。
さらに、相手の反応も見えるから、軌道修正がしやすいのです。
最後に「ワハハ」と笑ってしまえば、なんとなく円満になり、うやむやのうちに会話が終了することもあるでしょう。
一方、書いてしまった文章が相手に渡ってしまったら、取り返しがつきません。
後で修正したとしても、最初の文章は「証拠」としてずっと残ります。特にデジタルデータの場合、自分の知らぬ間に拡散する可能性もあります。
感情に任せて言葉を書き連ねるのは、人ごみの中でわめき散らしているのと変わらない、顰蹙を買う行為。後から反省しても、取り返しがつかないこともあります。
この点で学校教育の国語と正反対かもしれませんが、「ありのままの自分を、自由に文章で表現するのはとても危険」という姿勢で、『クラナリ』編集人は作文教室を開いていました。
例えば、自分の中に不満があったとしましょう。
その不満を誰かに気づいてほしいために「ウザい」を連発したり、「傷つけられた」と長文をしたためたりしても、「不満がある」という一方的な感情しか相手には伝わりません。
子どもならばまだかわいいものですが、大人になると「何を伝えたいのか、よくわからない」「こんな人は付き合い切れない」と敬遠されてしまうでしょう。
「人間はわかり合えない存在だけど、なんとかして気持ちを伝えたい」「皆さん、忙しいとは思うけれど、私の文章をなんとかして読んでもらいたい」という熱意と謙虚さ。これらを持った上で、相手に対して不満があるなら、その理由と自分が望む解決法まで検討してから、文章を作成するわけです。
話した言葉をそのまま文章にしない。
ありのままの自分を文章化にしない。
自分の感情を言葉を使って整理する。
外界の情報を言葉を使って分類する。
言葉を論理的に組み立てて文章を作る。
これが作文です。
ここまで書いてきて「作文は非効率的に、実に面倒くさい」と、しみじみ思ってしまいました。
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