宗教の複雑な世界観は、どうしてできちゃったのかな問題 その3 世界観に優劣はない
『シルクロードの古代都市』(著/加藤九祚 岩波新書)に「この文化(文字がないので「文明」とは言えない)」という記述があり、「あれ?」と思いました。
文字の有無で、「文化」「文明」を使い分けるのでしょうか?
作家の司馬遼太郎氏は「文明はたれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なものをさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたいもの」と『アメリカ素描』で書いています。文字については、全然触れていません。
そのほか、ネットで検索した限りでは、文字の有無と、「文化」「文明」は関係ないという印象です。
英語だと、文化はculture、文明はcivilizationです。
cultureの語源は、ラテン語のcolere(耕す、住む、敬い崇める)。
civilizatioについては、ラテン語のcivis(市民)やcivilis(市民の)、civitas(都市)。
語源を比較すると、「文化は一人でも成立するが、文明はたくさんの人間がいなければ成立しない」というイメージが湧いてきます。文字についても、一人ぼっちで暮らしているときには不要ですが、たくさんの人が集まって社会ができてくると書き留めるなどの作業で必要となります。
文字は、愛を伝えるためではなく、経済活動のために生まれてきたという歴史があります。都市で、市民生活を送るには文字は不可欠といえるのかもしれません。
ただ、文字の有無で「文化」「文明」を使い分けるわけではないということ。
さらに「文字があるから格上だ」「文字がないなんて劣っている」と優劣をつける考え方があるとしたら、要注意かなと思いました。
古い時代のことを知るために、私たちは当時に書かれた文献を探しがちです。ただ、そんな歴史書のようなものを残す風潮は、インドなどにはなかったようです。
「歴史書に記述がないから、文化がなかった」「学問は発展していなかった」という思い込みは、ちょっと直したほうがよさそうですね。。
『天文の世界史』(著/廣瀬匠 集英社)の終章で、「間違った『インドの世界観』」が紹介されています。
丸い大地がゾウに支えられ、それはカメに支えられ、さらに蛇で支えられている……このような宇宙観の描写は、インドの文献には存在しないようです。
「そもそもインドの天文学者はみな地球が丸いことを知っており、中には地球が自転していると考えたものすらいた」「複数の伝承が混同されて一つの宇宙観にまとめられてしまったのではないか」と筆者は述べています。
なぜ混同されたのでしょうか?
おそらく、「混同させたほうが面白くなる」と思ったのでしょう。
もう一つ、ヨーロッパ中心主義も関係している考えられます。
多くのヨーロッパ人は、「ほかの地域より、自分たちのほうが優れている」「似たような文化や共通点があるのならば、それはヨーロッパから伝わっていたものだ」という意識がかなり高い、ヨーロッパ中心主義です。そのため、中世に中東で科学が大きく発展しているのに、スルーしようとしています。日本の歴史の教科書は、ヨーロッパの解釈をそのまま掲載していることも多いのではないでしょうか。
そんな偏った、非常に少ない情報で決めつける「十把一絡げ」も要注意。
私たちも「日本人ってさ」「男ってさ」「Z世代ってさ」と言われたら、「いやいや、いろいろな日本人がいるし」と反発したくなりますよね。
「ズバリ、〇〇です!」と、ズバッと決めつけると、一見、格好よいわけですが、決めつけを鵜呑みすると思わぬ誤解を生むことになります。
「宗教の複雑な世界観は、どうしてできちゃったのかな問題」として記事を書いてきましたが、「複雑な世界観」を当時の、その地域の人が全員持っていたわけではありません。どの時代にも、どこの地域にも、多様性があるのです。
一つを知っただけですべてを語ろうとしてはいけないと、改めて考えてしまいました。
ただ、「すべてがわからないのなら、意味がない」とは思ってはおらず、一部しか知ることができなくても、それはそれで面白いと感じています。
Leave a Comment