インドの伝統天文学について調べてみた
紀元前17世紀頃に、中国で暦法が存在していました。
同時代に、インドでも暦法があったようです。面白いですよね、人類の歴史で同時多発的に暦法が誕生していたわけです。
中国とインド、そしてそのほかの地域で、星座などに共通点があることから、「起源はどこだ!」で論争が起こっていたようです。
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中国の二十八宿(Wikipedia Mysidより) |
人間がきれいだと思う形には、洋の東西を問わず、共通点があるといわれています。そして、きれいなものに特別な意味(天帝、神、聖なるものなど)を感じるのは自然なことではないでしょうか。
そう考えた場合、同時多発的に似たようなことを考える人たちがいても、不思議ではないと思うわけです。
その一方で、あまりに特別な意味を持たせるのもどうかなと。 スリランカ上座仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老は、次のように語っています。
「目的がある人がその目的に向かって努力しなさい。星は何をしてくれるのか」(Kiṃ tārakā karissati)という釈迦尊の言葉があります。
ものごとは(人の人生は)こころによって変わるのであって、星の位置によってかわるのではない。
今回は、インドの伝統天文学について調べてみました。
「インドの伝統天文学 - 特に観測天文学史について(1)」では、以下のような時代区分がされていました。
インダス文明時代
〇農業がかなり発達
〇インダス文字の使用
※ニワトリの鳴き声が、時計代わりになっていたという説あり
リグ・ヴェーダ時代 紀元前1500~紀元前1000年
〇太陰太陽暦(月の満ち欠けで1カ月を定め、1年は29.5日×12=354日で、3年に1回の1カ月をうるう月にする)の採用
〇雨季の開始が年の区切り
〇月は星の間を巡っていくと考えた
※ヴェーダは口伝で、文字は発達していなかった
後期ヴェーダ時代 紀元前1000~紀元前500年
〇27または28の星宿(ナクシャトラ)の体系が確立
〇日の出の方向の変化などに注目
〇遊牧民だったアーリア人が定住して農業を始める
〇バラモン教の祭祀の体系が発展
※マウリヤ朝のチャンドラグプタ王の宰相のカウティリヤ(紀元前350~紀元前283年)の著作『アルタ・シャーストラ(実利論)』に、ノーモン(垂直に立てた棒などの影で時刻を示す日時計)の記述
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『実利論』 |
ヴェーダーンガ天文学形成期 紀元前600~紀元後400年
〇天文学が独立した学問分野として成立
〇農業などの生産活動への必要性に伴って、天文学は発展
〇月の通り道に当たる白道を27分割した星宿(ナクシャトラ)を使って月の位置を表した
※国立天文台のサイトには「ナクシャトラとは、黄道を13°20′ごと=27個に等分したもので二十七宿とも呼ばれます」と書かれている
※「ヴェーダーンガ(ヴェーダの補助学)」とは、ヴェーダを学習するための準備として学ぶ学問
※ブラーフミー文字が用いられた模様
※「ヴェーダーンガ(ヴェーダの補助学)」の中で、天文学・占星術に関係するのが『ジョーティシャ』
※仏教文献『シャールドゥーラカルナ・アバダーナŚārdula‐karṇa‐avadāna 』 :漢訳「摩登伽経(マトウガキョウ)」やジャイナ教文献『スーリヤ・パンナッティ』に、『ジョーティシャ』に掲載されていた「5年周期の暦法(5年=62朔 望月=67恒 星月=1830日)」が載っている
※紀元前139年に、中国の王朝である前漢の武帝は張騫 (ちょうけん)を大月氏(アーリア系)に派遣し、これがきっかけで、長安(現在の西安)から西アジアやインドに達する交易路が開け、学問、芸術、宗教などが東西に伝播した
ヴェーダーンガ天文学継続使用期 200~400年
〇バラモン教が変化してヒンドゥー教が形成
〇スメール山(須弥山)を中心とする世界観が形成
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須弥山(「インドの伝統天文学 - 特に観測天文学史について(1)」より) |
ギリシャ系ホロスコープ占星術伝来期 200~300年
ギリシャ系数理天文学伝来期 400年
〇天文・数学者のアールヤバタが499年に 『アールヤバティーヤ』執筆
ヒンドゥー古典天文学時代 500~1200年
〇ヴァラーハミヒラが占術書『ブリハット・サンヒター』を執筆
〇アールヤバタの学派を継承・発展した天文計算書『カンダカードヤカ』を、ブラフマグプタが665年に執筆
ヒンドゥー天文学・イスラーム天文学併存期 1300~1900年
■参考資料
インドの伝統天文学 - 特に観測天文学史について(1)
名古屋大学 ニワトリのコケコッコーが体内時計によって制御されていることを解明
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