進化医学について、超文系人間がざっくりまとめてみた その1 チャールズ・ダーウィン登場前後の進化論(2024年10月4日初出、2026年2月17日更新)

 『創世記』には天地創造で神が万物を創造したと書かれていたため、ヨーロッパでは天地創造から生物は基本的に変わっていないという「創造説」が主流を占めていました。神が人間、イヌ、ネコ、ゴキブリ、ゾウリムシなどをそれぞれ別々に作ったという考え方です。


当時の一般的な考え方は、すべての生物種は神が個別に創造したものであり、それぞれの種はなんらかの原型によって定義される、というものであった。(中略)
 つまり、それぞれの種は基本的には不変であり、進化することはないというわけだ。とはいえ、個体差や変異があるのも事実である。そこで、個体差や変異がある程度蓄積して変種や品種が生じたとしても、それは種と種を隔てている境界を越えることはない、と考えられていたのである。

 たとえば、『種の起源』には、当時の多くのナチュラリストが「家畜を野生に戻してやれば、元の状態に先祖返りしてしまう」と考えていたことが、繰り返し述べられている。 

『『種の起源』を読んだふりができる本』

「アダムの創造」(Wikipediaより)


 しかし、生物や地球に関する科学研究が発達して、18世紀頃から進化論が登場してきました。

変異が蓄積すれば種の境界を越える、ということだ。
ダーウィンははっきりと個別創造説を否定して、進化に対する障壁を取り除いたのである。

『『種の起源』を読んだふりができる本』


 DNA分析技術が発展し、2003年にはヒトゲノム配列の解読が完了しました。
 結果として、医学と生物学の両方で、人間にとって不都合な変異が淘汰されずに集団中に存在しているのかが注目されているそうです。高血圧や糖尿病といった不都合な病気が、実は「進化では理にかなっている現象」という形で説明できるということです。

 今回は、ひとまず、チャールズ・ダーウィン登場前後の進化論について調べてみました。当時のイギリスでは、すでに「進化=進歩」という考え方が根付いていたようです。

歴史家のピーター・J・ボウラーは、生物学者としてのダーウィンは進化を方向性のないものと認識していたが、社会哲学者としてのダーウィンは進化を進歩の意味で説明した、と述べている。自説が社会に受け入れられるには、19世紀英国社会の進歩主義に貢献できるものでなければならない、と考えていたためだという。自然選択説という自説の核を守るため、それに付随するはずの進化の無方向性を犠牲にしたというのである。ただし、ダーウィンは部分的には進化を発達や進歩と見ていたと指摘する研究者もいる(*1)。
いずれにせよ、方向性のない進化というダーウィンの革新的なアイデアは、ダーウィン自身がのちに封印してそれほど強く訴えなかったこともあり、当時は社会的にもあまり意識されなかった。だからダーウィン進化論が、当時の社会の進歩観に衝撃を与えたわけでも、それと対立したわけでもない。それどころか社会はそれを進歩主義の推進力に利用したし、ダーウィンもそれを利用した。

ボウラーを始め多くの歴史家は、「ダーウィニズム」は19世紀後半において、ほとんど必然的に進歩主義的な意味を持つものであり、中産階級の競争による権力獲得を正当化する思想と合流した、と指摘している。

つまり「進歩せよ」を意味する「進化の呪い」は、生物の変遷も人間社会の発展も、それが神の摂理であれ自然法則であれ、共通の法則に従うひとくくりの進歩として捉えられた、19世紀欧米社会の世界観であると言ってよい。

その世界観は、恐らくはギリシャ時代に端を発し、キリスト教の終末論的概念を負の推進力として強化され、啓蒙時代の英国を覆っていた、進歩史観に由来するものだ。進歩のために、自助努力を重視し競争を許す思想は、プロテスタントの労働倫理が影響したものであろう。

「進化の呪い」は生物学の原理を社会に当てはめて生まれたものではない。初めから自然、生物、社会をあまねく支配し、進歩を善とする価値観として存在していたものである。

『ダーウィンの呪い』



Wikipediaより


ピエール・ルイ・モーペルテュイ(1698 – 1759年)

 フランスの数学者、著述家。
 『人間と動物の起原』(1745年)で、遺伝学の先駆者としても評価されています。


ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン(1707 - 1788年)

 フランスの博物学者、数学者、植物学者。
 『博物誌』(1749年)の諸巻で進化をほのめかしていて、地球の年齢を『創世記』にもとづくよりはるかに長大なものとし、それを測定するための実験も試みています。

18世紀にはフランスのジョルジュ・ビュフォンが、「ときの流れの中で、発達と退化を経て、ほかのすべての動物を生み出した」と歴史的な種の変化の可能性を指摘していた。進歩と退化(堕落)を決めるのは環境の違いだと考えたビュフォンは、生命の活力を低下させる新大陸の気候は、動植物のみならず人間も退化させると説いた。
この主張に激怒した米国建国の父、トマス・ジェファーソンは、反論のため米国の自然や動植物を称える活動に力を入れ、巨大なヘラジカの剥製をビュフォンのもとに送りつけた。
ドイツではビュフォンの説が支持を集め、イマヌエル・カントは人種の違いを気候の違いで生じたものだと主張した。

『ダーウィンの呪い』


ドゥニ・ディドロ(1713 - 1784年)

 フランスの哲学者、美術批評家、作家。
 現在の大動物も過去には小さいうじ虫のごときものであったと述べています。


ポール=アンリ・ティリ・ドルバック(1723 - 1789年)

 ドイツの貴族出身でランスの哲学者、啓蒙思想家、百科全書家。ディドロの友人。
 『自然の体系』(1770年)で、人間を含め生物が地表の変化に伴って変化してきたことを説きました。


イマヌエル・カント(1724 - 1804年)

 ドイツの哲学者。
 『判断力批判』(1790年)で進化について触れられているそうです。


エラズマス・ダーウィン(1731 – 1802年)

 イギリスの医師・詩人・自然哲学者。チャールズ・ダーウィンの祖父。
 1796年の著書『ズーノミア』で、すべての温血動物は一つの生きた糸に由来し、生命は海中に誕生し発達して人間を生じたと説きました。

英国では18世紀から19世紀初めにかけて、神の摂理は自然法則の形で作用し、自然の発達を通じてその摂理が実現する、と考える、進化理神論(Evolutionary deism)と呼ばれる主張が広がっていた。生物の個体発生もこうした摂理が作用する例と考えられていた。この進化理神論者の一人で、ダーウィンの祖父、エラズマス・ダーウィンも、1791年にエヴォリューションを個体発生の意味で使い、こう記している。「種子から進む動物または植物の幼体の段階的なエヴォリューション」。

進化理神論では、最初は不明確でまとまりのない均質な状態から始まり、それが発達して、複雑でまとまりを持つ秩序ある多様性に至る、と考える。

最終的に到達するのは、最大の幸福を実現する理想的な状態である。この進歩・発展の過程がエヴォリューションと呼ばれるようになった。成体という目標に向かって発達するのが個体発生であり、エヴォリューションなので、それを生物の歴史的な変遷に置き換え、個体発生と同じく何らかの目標に向けて発展する現象と見なせば、それはエヴォリューションとなる。 

『ダーウィンの呪い』



ジャン=バティスト・ラマルク(1744 - 1829年)

 フランスの博物学者。「biology」という語を、現代の意味で初めて使った人物の一人だと紹介されています。
 『動物哲学』(1809年)で進化論が体系的に説明されています。
 無機物から自然発生している原始生命が、内在する力によって発達し複雑化した生物になっていく一方で、ある器官を休みなく使うと発達が促されて強化され、使わなければ萎縮するという「用不要説」、こうして獲得した形質は遺伝するという「獲得形質の遺伝」をまとめたラマルクの進化論は、少数の学者の注目を引いただけで、無神論者、唯物論者として非難されました。
 ラマルクは1820年に失明しましたが、2人の娘に助けられて『無脊椎動物誌』7巻を完成させました。
「ラマルクの進化論」四法則
第一法則 生物はそれ自身の力で、体全体と各器官を、できるかぎり大きくしようとする要求を持つ。
第二法則 動物には新しい器官をつくりだそうとする絶え間ない要求があり、それにもとづく運動を続けることで、これを実現する。
第三法則 器官の形態と機能は、それらの使用度合いに応じて発達するものである。
第四法則 ある個体が、生涯の間に獲得した変化は、すべて子孫に遺伝する

フランスではジャン=バティスト・ラマルクが1809年に、親が環境に応答して獲得した性質が次世代に先天的な性質となって伝わる、という考えで生物の変化を説明した。ラマルクによれば、生物は体の構造をより複雑なものへと進歩させる内的な性質を持つという。環境が大きく変化すると、生物は生き残るために変化しなければならない。
脳を持つ動物は意識的に、それ以外の生物は無意識的に、変化した環境に適した性質を獲得しようと努力する。その結果身体に生じた変化は、子に受け継がれ、先天的な性質となって世代を超えて伝えられる。使われない性質は逆に失われる。こうした獲得形質の遺伝による目標に向けた進歩で、生物は祖先から子孫へと徐々に性質が変化していく、と考えたのである。

 用不用は、よく使用される器官は世代を重ねるごとに発達し、使用されない器官は退化していく、というメカニズムである。(中略)現在では誤りとされている説だが、『種の起源』では進化の仕組みの一つとして採用されている。
 ちなみに用不用説は、しばしばフランスの博物学者であるジャン=バティスト・ラマルク(一七四四~一八二九)が提唱した説と言われるが、それは間違いである。用不用説は古代から存在する考え方で、当時の進化学者にとっても一般的なものであった。ラマルクもダーウィンも、そういうよく知られた用不用説を自説に取り込んだに過ぎない。

 獲得形質の遺伝は、ネオ・ダーウィニズムの研究者から否定されました。ただ、この説は、現在では間違いではないとされていると、国立遺伝学研究所の井ノ上逸朗教授は述べていました。また、隠岐さや香博士は、ラマルクを「不遇」と評しています。

トマス・ロバート・マルサス※経済学者 (1766-1834年)

 イギリスの経済学者で「生存闘争」という考え方を発表しました。
 「進化の呪い」は生物学の原理を社会に当てはめて生まれたものではない。初めから自然、生物、社会をあまねく支配し、進歩を善とする価値観として存在していたものである。

マルサスは、こうした貧困層や下層階級に不利な「生存闘争」(struggle for existence)により、人口増加とその抑制による減少という無限のサイクルが続く、と見なしていた。
(中略)
 ダーウィンは自然選択が作用する個体間の相互作用や環境との関係を比喩的に「生存闘争」と呼んでいるので、これを文字通りの意味だけで受け取ってはならないのである。生存をかけた闘争という文字通りの意味だけでなく、例えば強制や協調行動のような、生存闘争とは対照的な振る舞いも、それが子孫の多寡に関わるならば、ダーウィンの生存闘争に含まれる。厳しい環境に耐えるという意味もあるし、生物が互いに、あるいは環境に依存しているという間接的な意味まで含むのである。

『ダーウィンの呪い』
トマス・ロバート・マルサスWikipediaより)



ジョルジュ・キュヴィエ (1769-1832年)

 フランスの比較形態学者。ラマルクの進化論を強く否定したことでも知られています。
 キュヴィエは古生物が時代によって異なるものから構成されることを明らかにしました。
「器官相関の法則」…動物体を構成する特定のある器官は他の器官と無関係に存在しているのではなく、形態の面でかならず相互に連関し合っている

 動物を、次の4つに分類できるとキュヴィエは主張しました。
1 脊椎動物
2 軟体動物
3 節足動物
4 放射動物
 この4つは神が作ったもので、相互に移り変わることはなく、天変地異の度に神が4つに分けて作り直したというような主張をしています。

解剖学者・古生物学者のジョルジュ・キュヴィエは、天変地異による種の絶滅と入れ替わりで種構成の歴史的な変遷が起きるとする「天変地異説」を唱え、ラマルクの主張する祖先―子孫の漸進的変化を批判した。

ウィリアム・ユーアット(1776-184年)

 イギリスの獣医。

「選抜の原理を使えば、家畜の形質を少し変更するだけでなく、まったく別のものに変えることができる。それは、生物を好きな形や性質に変えられる魔法の杖なのだ」。
 彼の品種改良に関する仕事は、ダーウィンの思索に大きな影響を与えたのだ。

ウィリアム・ユーアットWikipediaより)



エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレール(1772 - 1844年)

 フランスの博物学者。自然史博物館の脊椎動物学教授で、同僚のラマルクの進化論に理解を示しました。

ウィリアム・ヒューウェル(1794 - 1866年)

 イギリスの科学者、科学史家、科学哲学者、司祭、神学者。
 科学哲学の黎明期においてカント流の合理主義的科学哲学を展開し、後の科学哲学に大きな影響を与えました。英語において「科学者」という言葉を発明した人物とのこと。
 「種は自然界に厳然として存在するまとまりであり、ある種が別の種に変異するなどということはあり得ない」と述べています。


ロバート・チェンバーズ(1802~1871)

 スコットランドの出版業者、地質学者。
 1844年刊行の『創造の自然史の痕跡』の著者ですが、出版当時は著者不詳でした。自然神学との混合のような進化論が書かれ、一般の関心を呼んでベストセラーとなり、多くの議論が起こりました。

 生物の「発展の法則」という仮説を論じ、ある種は周囲の環境によって別の種へと変化し、単純な生物から複雑な生物へ、最終的には人間まで、地球上の生き物は段階的に変化してきたと述べました。その結果が環境への適応です。神の働きを否定していないが、神は変化のプロセスを最終的に操るだけで、その役割はより間接的なものにとどまるとしていました。
 チェンバーズの進化論は、生物だけでなく、宇宙や社会などすべてのものが進歩していくというもので、「発達(development)」という言葉を使いました。

1844年に匿名で出版されたロバート・チェンバースの『Vestiges of the Natural History of Creation』は、神の摂理である自然法則のもと、太陽系が形成され、既存の種から新しい種が生まれ変遷して、人間に至る、と主張した。
ラマルクもチェンバースもエヴォリューションという語は使わなかったものの、地球上の生命の発展は、あらかじめ決められた目標に向けた首尾一貫した計画の展開であると考えていた点で一致していた。

『ダーウィンの呪い』


チャールズ・ダーウィン(1809 - 1882年)

 イギリスの地質学者、生物学者。
 ダーウィンは、ケンブリッジ大学在学中、指導教授ヘンスローの後押しで海軍省に採用され、英国軍艦付きの博物学者として、1831年にビーグル号で世界周航の旅に出ました。このとき22歳。ビーグル号の目的が南米沿岸の測量で、船が行きつ戻りつ同じ沿岸部を測量している間、ダーウィンは下船してしばしば内陸部への旅行を試みています。イギリスに帰着したのが1936年で、ダーウィンは27歳になっていました。
 3年後の1939年に『ビーグル号航海記』が出版されました。
 進化論についての書籍である『種の起源』は1859年に出版。主な内容は、次の3つです。
○自然選択 新しい環境によりよく適応した生物は、そうでない生物よりも生き延びる(生存に少しでも有利な、子どもを多く残せる変異が選択され、集団に広まっていく)
○共通祖先からの進化 あらゆる生物は一つの共通祖先から発生した
○漸進主義(漸進的進化)  生物の進化は少しずつ起こる(「自然は跳躍しない」)
 進化を意味する言葉として「変化を伴う継承」(descent with modification)を、ダーウィンはよく使っていました。この言葉には進歩や前進という意味はありません。
 自然選択が働けば、生物は自動的に、ただ環境に適応するように進化します。明らかに進歩ではないと考えたのでしょう。


ダーウィン(パブリックドメインQより)

ハーバート・スペンサー(1820 - 1903年)

 イギリスの哲学者、社会学者、倫理学者。
 ダーウィンが『種の起源』を出版する前に、スペンサーは進歩の概念を含む進化論を唱えました。等質の状態から異質の状態に進むことが進歩で、生物の進化をその一環として規定。社会を生き物として捉え、「全体があって個人は全体の機能を分担する役割を担っている」と考える「社会有機体説」に基づいて、生物進化論と並んで社会進化論を唱えました。
 ダーウィンの『種の起源』を読み、そこで表現されている自然選択説を適者生存と言い換えました。
 「進化」のことを英語で「エボリューション(evolution)」といいますが、これはスペンサーが広めた言葉です。

19世紀前半には、エヴォリューションは内的な力によって生起する一定の方向に向けた時間的変化や、単純なものから複雑なものへと発達、発展する現象を広く表現する言葉として使われるようになっていた。

ダーウィンが『種の起源』で進化の考えを提唱する以前に、エヴォリューションは、様々な現象の発展、発達、進歩や、一つの目標に向かう変化を意味する語として使用されていたのである。
この由緒正しい意味でエヴォリューションの語を使い、宇宙の発達、生物の複雑・多様化、人間と精神の発達、社会の発展・進歩を、自然法則として統一的に説明しようとしたのが、ハーバート・スペンサーである。

彼の著書『First Principles』が出版され、世間の評判を得るのは1862年だが、1850年代にはすでにその構想を完成させ、一部を発表している。スペンサーが生物のエヴォリューションを駆動する力として重視したのは、ラマルクの考えである獲得形質の遺伝を主とする内的な力だった。
1864年に出版された『生物学原理』(The Principles of Biology)で、適応の要因として獲得形質の遺伝とともに、自然選択を一部だけ取り入れたが、それが適用できる性質の範囲は限られる、と考えていた。


 ダーウィンは表向きスペンサーを評価する一方、生物学の記述、特に生殖についてはスペンサーの考えをでたらめだと思っていた。「適者生存」の語も無視していた。スペンサーはそれらを同じ意味としたが、実は自然選択と適者生存には大きな違いがあったのである。 

『ダーウィンの呪い』

ハーバート・スペンサーWikipediaより)


アルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823 -1913年)

 イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。
 独学で博物学を学び、『創造の自然史の痕跡』の「独創的な仮説」に駆り立てられ、友人のヘンリー・ウォルター・ベイツとともにアマゾンへ標本採集に行く計画を立てます。1848~1852年(25~29歳)に南米のアマゾンで過ごします。南米への出発以前、ダーウィンの「ビーグル号航海記」と、スコットランドの地質学者チャールズ・ライエルの「地質学原理」を読み、強い印象を受けたとされています。
 1854~1862年(31~39歳)にマレー諸島で過ごしました。公的な後ろ盾のないウォレスは、単身で現地に乗り込んで探査。標本を採集し、それを博物館などに売却して滞在資金を捻出したそうです。
 マレー諸島滞在の間、根拠地としたテルナテで1858年、種の分岐に関する「テルナテ論文」を執筆してダーウィンに送りました。この原稿が、「自分の考えとほぼ同じだ」とダーウィンに衝撃を与え、ダーウィンは慌てて論文を書き、同年リンネ学会でダーウィンとウォレスの進化論の論稿が併読されます。ウォレスの論文の名前は、「変種が元のタイプから無限に遠ざかる傾向について」でした。
 1862年に旅行を終了し、シンガポールを経てイギリスに帰国。
 1869年(46歳)に『マレー諸島』を出版。生物地理の話が中心で比較文明論的記述なども含んでいるとのこと。

 『種の起源』でダーウィンは、自然選択の創造性が示す威力をこう強調している。「自然選択は絶え間なく作用する力であり、自然の作品が芸術作品よりも優れているように、人間の弱々しい努力よりも計り知れないほど優れているのだ」。
 これに対してスペンサーが自然選択と同義とした適者生存は、実際にはダーウィン以前に考えられていた類似のプロセスと同じく、劣った変異を除去して変化を止める役目が主で、創造的な作用の意味はほとんど想定していなかった。
 このように適者生存と自然選択は概念が違うので、ダーウィンがそれを無視したのは妥当である。ところが意外なところにそうは思わない人物がいた。ダーウィンの盟友、ウォレスである。ウォレスは自然選択という用語のせいで、それを誰かが目的を持って何かを選ぶような能動的な仕組みと誤解させてしまうことに悩んでいた。そこで適者生存に飛びついたのである。

『ダーウィンの呪い』 

アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Wikipediaより)




トマス・ヘンリー・ハクスリー(1825 - 1895年)

  イギリスの生物学者。人間の猿類起源説を提唱。「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、ダーウィンの進化論を弁護しました。

 ダーウィンの盟友だったトマス・ヘンリー・ハクスリーは、自然選択が適者生存という語に置き換えられたという不運のために、多くの害がもたらされた、と述べている。
トマス・ヘンリー・ハクスリー(Wikipediaより)


エルンスト・ヘッケル (1834~1919年)

 ドイツの動物学者。海産の無脊椎動物を研究。ダーウィンの進化論を支持し、3界説を唱えて生物の進化類縁関係の系統樹を作りました。


アウグスト・ワイスマン(1834年−1914年)

 ドイツの動物学者。
 動物の発生・遺伝・進化の理論研究を行い、生殖質は親から子への連続性はあっても体質の変異は遺伝せず、生殖による遺伝質の混合は淘汰の素材で、遺伝質そのものは不変的だと考えました。
 進化は自然淘汰のみによって説明できると主張した説は「ネオ・ダーウィニズム」と呼ばれました。


ユーゴー・ド・フリース(1848-1935年)

 オランダの植物学者・遺伝学者。
 『突然変異説』(1901年)で劇的な突然変異が進化の主原動力だと主張しました。

木村資生(もとお)(1924 - 1994年)

 日本の集団遺伝学者。
 1968年に「分子進化の中立説」を提唱しました。これは、当時支配的であった「淘汰万能主義」を否定するものとして、多くの批判にさらされてきました。
 現在では「中立理論」として、DNAレベルの進化で指示されています。
 
 中立理論では「生物進化の主たる要因は偶然である」「生存にとって不利な変異は、自然選択によって集団から除去されるが、それ以外の変異は偶然に集団に固定する」「どの変異も裕レ値はなく平等に残る」と考えます。 
 分子生物学が飛躍的に発展し、分子レベルの進化の大半は中立進化で説明できることが明らかになったとのこと。

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 ダーウィンの進化論を取り入れた進化医学(ダーウィン医学)は、アメリカの医師ランドルフ・ネシーとアメリカの進化生物学者ジョージ・ウィリアムスが1991年に提唱した、新しい学問です。人間の体の仕組みや、その異常ともいうべき病気を理解するために、生物の進化の歴史が注目されるようになりました。そして、高血圧のように、一見、不都合な病気にも、合理性があることが進化医学で示されています。

 人類は長い歴史の中で、さまざまに変化する環境に適応する必要がありました。暑くなったら高い気温でも過ごせるタイプが、寒くなったら低い気温でも過ごせるタイプが生存や繁殖に有利で、その形質が次の世代に残りました。生存や繁殖に不利であれば残れないだけで、進歩ではありません。その場しのぎなので、環境が変われば有利だった形質が不利になることもあるのです。

  『宗教の起源』(著/ロビン・ダンバー 白揚社)では、進化論についての説明が行われています。なお、引用内の太字は、『クラナリ』編集人によるものです。

生物学的(つまり遺伝的)な継承が繰りかえされるなかで、種は生存と生殖の問題を解決するのに最も適した形態(つまり適応度を高めていく形態)に進化していく。(中略)
 重要なのは、適応度は、専門的にはある形質もしくは遺伝子(わかりやすく個体と言いかえてもいい)における特性ということだ。集団や種全体における特性ではなく、したがって、進化では集団(種全体)の利益は実現しない。(中略)そのため生物学者は個体の利益を犠牲にして、集団全体の利益だけを追求するという考えにはかなり懐疑的だ。
 非適応形質ももちろんありうるし、ダーウィン進化論では一般的だ。ただしそれによって個体がこうむる損失が、ほかのすべての形質から得られる適応度を超えないことが前提となる。次世代に遺伝子をつなげるために、個体は相反するさまざまな要求を解決しなければならないのだから、自然なことだろう。

適応度:ある個体が将来の世代に残す子孫の数(正確には遺伝子のコピー数)
非適応形質 (non-adaptive character) :生物にとって合目的性が認められない性質や特徴

それもこれも、自然選択という進化の原動力に先見の明がないためだ。いま目の前にある問題に対応するだけで、未来は予測できないのである。
※「それもこれも」は二足歩行の副産物である腰痛など

私たち人間も異なる生命体が集まった複合体だ。人間の遺伝子の大多数は、進化の過程でウイルスや単細胞生物が自らのゲノムを人間のゲノムにもぐりこませたもので、そうすることで人間の生殖能力に便乗して進化していったのだ。なかには生きた細胞にエネルギーを供給するミトコンドリアのように、多細胞生物の生命維持に不可欠になったものもある。つまり、協力によって個体が成功するのであり(適応度が高まる)、集団が個体の利益に反して成功するわけではないのだ。
 もうひとつ重要なのは、形質そのものとその継承の方式はまったく別物であるということだ。形質が個体から個体へと伝わっていくメカニズムはダーウィン進化論どおりであり、個体間に生物学的関係があってもなくても、遺伝子が共有されていてもいなくても構わない。
ダーウィン的生物進化は、完璧な最終状態をめざしてすべての種が同じ段階を踏む一本道のプロセスではない。

ダーウィン進化論の世界では、すべての生命の起源はひとつしかない。進化の方向と速度を決めるのは、生物がたまたま直面する課題と、偶然見つけた回避策しだいであって、必然性が入る余地はない。進化はまっすぐに進むのではなく、さまざまな種が新しい状況に適応しながら少しずつ変化していく枝わかれのプロセスなのだ。

※地球上で最初に誕生した生命は「コモノート」と呼ばれている
要はダーウィン進化論が扱う現象は、遺伝子による継承にとどまらないということである。先祖と子孫(教師と教え子でもいい)において、論点となっている形質を互いに似せる何らかの仕組みがあるかぎり、継承の仕組みが遺伝子によるものか(生物学的進化)、学習によるものか(単純な学習のほかに文化的進化もある)は問題ではない。ダーウィン進化論の規則は、これらすべての事例に適用できるのだ。

 なんの目的も方向性もなく起こった変異が、自然選択というふるいにかけられて、後々まで残るか、すぐに消えるかが進化のようです。その変異も、「ガラッと別物になる」のではなく、前段階を踏まえた上でのわずかなもので、連鎖しています。

 ですから、「発展」や「進歩」という言葉は、進化とは無関係。退化も進化に含まれるわけです。
 また、一定方向への変化とは限らないということ。

 要は、進化は「でたらめ」なのです。

 そのため、生物が進化するのは、その個体の都合でしかありません。「仲間を残すために、自分はどうなったってかまわない!」といった集団(種)の利益なんて、進化とはまったく関係がない話です。

■参考文献
『分子からみた生物進化』(著/宮田隆 講談社)

『ダーウィンの呪い』(著/千葉聡 講談社)

ダーウィンになれなかった男

若い読者に贈る美しい生物学講義

書評 「ビーグル号航海記」と「マレー諸島」

ジャパンナレッジ 岩波 生物学辞典 改訂新版 世界大百科事典
シリーズ認知と文化 9 ヒトは病気とともに進化した

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