「主流派」の医師のせいで軍人や産婦が亡くなってきたという歴史
主流派の勘違いで
多くの人が死んだという事実
『代替医療のトリック』(サイモン・シン、エツァート・エルンスト 新潮社)は、実に残念な本でした。
その理由が、代替医療を「主流派の医師の大半が受け入れていない治療法」と定義していたこと。加えて、「治療法の基礎となる考え方が、今日の解剖学、生理学、病理学をはじめとする科学的知識と相容れない」と説明されていたことでした。
歴史の中で、後世になってようやく「主流派」の誤りが正された例は少なくありません。それまでの間は、「主流派」の傲慢な勘違いのおかげで多くの人が亡くなったのです。
有名なのは鈴木梅太郎のビタミンB1の発見。
当時の主流派だった森林太郎(森鴎外)という医師によって鈴木梅太郎の研究は認められず、たくさんの軍人が脚気で亡くなっていったのです。
今では「消毒の父」などと呼ばれるゼンメルワイスという医師についても、「産褥熱は医師が手の消毒を行うことで防げる」と訴えたにもかかわらず、主流派に認められず、排斥されて、47歳で生涯を終えました。
その頃は死体の解剖をした医師が手をきちんと洗わずに分娩に立ち会っていたのです。しかし、産褥熱は細菌感染ではなく原因不明、あるいは母体の衰弱によるものなどと考えられていました。さらに、医師が産褥熱の原因を作っていたとは、多くの医師が認めたくなかったのでしょう。
学会などで発言力・政治力を持つ「主流派」の医師。
「主流派」のドンや弟子たちが、彼らなりの科学的知識と論理で「正しい」と証明した治療法によって、多くの患者が亡くなってきたという歴史があります。
それを踏まえると、『代替医療のトリック』のように「代替医療はインチキ」という結果ありきで「科学的」データを集めるのは残念としか言いようがありません。
特に鍼の臨床試験については、「指圧や置き鍼といった治療法もあるのに、試験方法に問題はないのか」などと疑問を抱きました。
高みの見物で
無責任な批判をする
『代替医療のトリック』の主要な著者であるサイモン・シンは、治療家ではなくジャーナリストです。病気で苦しんでいる患者と直接的な接触がない、ある意味「安全な立ち位置」から見下すように代替医療を批評しているわけです。
「科学と意見という二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む。」というヒポクラテスの言葉が、この本の冒頭で引用されていました。代替医療というのは「意見」で、「無知」を生んでいると著者は言いたいようです。
ただ、『古い医術について 他八篇』でヒポクラテスは以下のように述べています。
○技術について 第一節
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諸々の技術を誹謗するための技術を作ったところの人々がある。
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これに反していかがわしい言葉の技術によって、他人の発見の結果を誹謗することにいっしょうけんめいになり、進歩は何らもたらさずに、学識ある人々の発見を学識のない人々に向かって誹謗して見せるのは、けっして人知の欲求でも課題でもなく、けがれた根性の徴しもしくは技術の欠如である。
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○医師の心得 第二節
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しかし言葉の上だけでなされた結論からは何ら益も得られない。益は事実の明証にもとづく結論から得られる。饒舌による強弁は欺きやすく、あてにならない。それゆえいやしくも安定さと、我々が医術と称しているところのあの間違いなさの域に到達しようと欲するならば、われわれは終始事物の生成の概括化に努め、事実への密着に努めなければならない。
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医学の教科書に書いていないような、新しいさまざまな治療法に対して、「そんなの効くはずがない」「おかしい」とおとしめるようなことを言うのが、お上手な人がいます。
新しい発見をしようとするのは私たちの欲求であり、課題であるとヒポクラテスは語ります。それにもかかわらず、粗探しばかり行っている人は、自分に新しい発見をするだけの技術がなく、実力もないのに名声ばかり求めているわけです。
「科学と意見という二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む。」の「科学」とは何を指しているのでしょうか。私には教科書的な西洋医学こそ「意見」で、病状の変化を丹念に観察する態度、似たような病気と比較・分析する態度が「科学」ではないかと思うのです。
○医師の心得 第一節
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経る時の中に機会は含まれている。しかし機会は長い時を含んではいない。治療は時の経過による、しかし機会によることもある。しかし医療は、このことを知りながらもあらかじめもっともらしい理説を頼りにこれを行うのではなく、実地に理説を配しながら行うのでなければならない。
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問題点は方法ではなく
人にある
『代替医療のトリック』では代替医療にお金をかけ過ぎている問題点が指摘されています。携わる人々の中に「医療よりも金銭面に力点」を置いて、「有害なアドバイス」を行い、「好転反応」を多用する人がいることには、私も苦々しく思っていました。
西洋医学であれ東洋医学であれ、アーユルヴェーダであれユナニ医学であれ、金儲け主義で病人の不安をあおるような治療家(医師を含む)、あるいは教科書的で患者を一人の人間として観察していない治療家(これは医師に多い)、プライドばかりが高くて多様な意見に耳を貸せない治療家(これも医師に多い)は患者を治せないでしょうか。
そう考えると、問題は治療法ではなく、治療家や治療法を勧める人間の人柄なのかもしれません。
多くの人が死んだという事実
その理由が、代替医療を「主流派の医師の大半が受け入れていない治療法」と定義していたこと。加えて、「治療法の基礎となる考え方が、今日の解剖学、生理学、病理学をはじめとする科学的知識と相容れない」と説明されていたことでした。
歴史の中で、後世になってようやく「主流派」の誤りが正された例は少なくありません。それまでの間は、「主流派」の傲慢な勘違いのおかげで多くの人が亡くなったのです。
有名なのは鈴木梅太郎のビタミンB1の発見。
当時の主流派だった森林太郎(森鴎外)という医師によって鈴木梅太郎の研究は認められず、たくさんの軍人が脚気で亡くなっていったのです。
今では「消毒の父」などと呼ばれるゼンメルワイスという医師についても、「産褥熱は医師が手の消毒を行うことで防げる」と訴えたにもかかわらず、主流派に認められず、排斥されて、47歳で生涯を終えました。
その頃は死体の解剖をした医師が手をきちんと洗わずに分娩に立ち会っていたのです。しかし、産褥熱は細菌感染ではなく原因不明、あるいは母体の衰弱によるものなどと考えられていました。さらに、医師が産褥熱の原因を作っていたとは、多くの医師が認めたくなかったのでしょう。
学会などで発言力・政治力を持つ「主流派」の医師。
「主流派」のドンや弟子たちが、彼らなりの科学的知識と論理で「正しい」と証明した治療法によって、多くの患者が亡くなってきたという歴史があります。
それを踏まえると、『代替医療のトリック』のように「代替医療はインチキ」という結果ありきで「科学的」データを集めるのは残念としか言いようがありません。
特に鍼の臨床試験については、「指圧や置き鍼といった治療法もあるのに、試験方法に問題はないのか」などと疑問を抱きました。
高みの見物で
無責任な批判をする
『代替医療のトリック』の主要な著者であるサイモン・シンは、治療家ではなくジャーナリストです。病気で苦しんでいる患者と直接的な接触がない、ある意味「安全な立ち位置」から見下すように代替医療を批評しているわけです。
「科学と意見という二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む。」というヒポクラテスの言葉が、この本の冒頭で引用されていました。代替医療というのは「意見」で、「無知」を生んでいると著者は言いたいようです。
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古代ギリシアの医師であるヒポクラテス |
ただ、『古い医術について 他八篇』でヒポクラテスは以下のように述べています。
○技術について 第一節
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諸々の技術を誹謗するための技術を作ったところの人々がある。
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これに反していかがわしい言葉の技術によって、他人の発見の結果を誹謗することにいっしょうけんめいになり、進歩は何らもたらさずに、学識ある人々の発見を学識のない人々に向かって誹謗して見せるのは、けっして人知の欲求でも課題でもなく、けがれた根性の徴しもしくは技術の欠如である。
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○医師の心得 第二節
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しかし言葉の上だけでなされた結論からは何ら益も得られない。益は事実の明証にもとづく結論から得られる。饒舌による強弁は欺きやすく、あてにならない。それゆえいやしくも安定さと、我々が医術と称しているところのあの間違いなさの域に到達しようと欲するならば、われわれは終始事物の生成の概括化に努め、事実への密着に努めなければならない。
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医学の教科書に書いていないような、新しいさまざまな治療法に対して、「そんなの効くはずがない」「おかしい」とおとしめるようなことを言うのが、お上手な人がいます。
新しい発見をしようとするのは私たちの欲求であり、課題であるとヒポクラテスは語ります。それにもかかわらず、粗探しばかり行っている人は、自分に新しい発見をするだけの技術がなく、実力もないのに名声ばかり求めているわけです。
「科学と意見という二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む。」の「科学」とは何を指しているのでしょうか。私には教科書的な西洋医学こそ「意見」で、病状の変化を丹念に観察する態度、似たような病気と比較・分析する態度が「科学」ではないかと思うのです。
○医師の心得 第一節
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経る時の中に機会は含まれている。しかし機会は長い時を含んではいない。治療は時の経過による、しかし機会によることもある。しかし医療は、このことを知りながらもあらかじめもっともらしい理説を頼りにこれを行うのではなく、実地に理説を配しながら行うのでなければならない。
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問題点は方法ではなく
人にある
『代替医療のトリック』では代替医療にお金をかけ過ぎている問題点が指摘されています。携わる人々の中に「医療よりも金銭面に力点」を置いて、「有害なアドバイス」を行い、「好転反応」を多用する人がいることには、私も苦々しく思っていました。
西洋医学であれ東洋医学であれ、アーユルヴェーダであれユナニ医学であれ、金儲け主義で病人の不安をあおるような治療家(医師を含む)、あるいは教科書的で患者を一人の人間として観察していない治療家(これは医師に多い)、プライドばかりが高くて多様な意見に耳を貸せない治療家(これも医師に多い)は患者を治せないでしょうか。
そう考えると、問題は治療法ではなく、治療家や治療法を勧める人間の人柄なのかもしれません。
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