何が正しいのかは、文章の書き手ではなく、不特定多数の読者が判断するものじゃないのか問題
『クラナリ』に掲載した情報に対して「○○は△△△△年ではないですか? ××にそう書いてあります」的な話が来ることがあります。
要は、『クラナリ』よりも自分のほうが正しいと。
もちろん、そう思うのはけっこうなのですが、『クラナリ』の情報はある程度の根拠があります。それ以上に、「根拠」というものが一般にけっこう不確かで正しいと言い切れないことから、「こっちのほうが正しい」「いや、こっちのほうが正しい」と議論は意味をなさないと考えています。
複数の公的資料を照らし合わせると、同じ出来事でも違う年のことだと記載されていたり、由来が異なっていたりするのは珍しくありません。歴史の教科書でも、「足利尊氏を描いた絵と思ってたら、ただの武将だった」などと改訂されるわけです。それはそれで、面白いと思っています。
○複数の公的資料に違うことが書いてあった例
江戸川は、いつから「江戸川」と呼ばれるようになったのか問題 番外編 「江戸川」は2本あった??
がらりと話は変わり、コピペ、つまり「他の文章や画像から必要部分の写しを取り、別の場所に貼り付ける」という行為。
過去には「自分の文章がコピペされていた」という場面に数多く遭遇しました。
健康系の記事を書いたところ、タイトルも含め3分の2がコピペで、ある治療院のサイトに掲載されていたのです。残りの3分の1については、商品広告の文章に置き換わっていました。
また、同じく健康系の記事で、外国のサイトに、文章は外国語に翻訳されて、写真はそのまま転載されていたこともありました。
まだまだ事例はありますが、長年、ネットニュースなどに携わっていると、これも仕方がないことだと思います。
ただ、かなり腹が立ったので、コピペされた記事についてはネット上で繰り返し「オリジナルはこっちだ」と主張し(具体的には関連記事を多数アップ)、同じテーマの書籍も作りました。
こうした経験から、次の立場を取っています。
○どちらが正しいのか、どちらがオリジナルなのかは、情報を受け取った人が判断するもの
○文章の書き手に「こっちが正しい」「こっちがオリジナルだ」と吹っ掛けるよりも、「なるほど、こっちのほうが正しい」「そうだな、こっちがオリジナルだ」と不特定多数の読者が納得するような情報発信をする
そもそも情報というものは、引用されたり、それをもとに新しいアイデアに変わったりすることで、生かされるのではないでしょうか。
「コピペされるのは嫌だ」「引用されるのは嫌だ」と思うのならば、自分のパソコンの中だけにデータを置いておけばいいのですが、誰にも知られないで終わるので死蔵といえます。
死蔵といえば、紙に印刷された地域資料については、死蔵になりがちです。せっかく作成したものを後世の人々に役立ててもらいたいのであれば、デジタル化して公開したほうがいいのではないかと思うわけです。
ただ、紙に印刷された地域資料をPDFなどにしてネットに上げても、役立てられるかどうかは微妙です。情報は加工しなければ、なかなか価値を認められないからです。編集者という職業があるのは、そのためです。
「地域資料を後で使いやすい形に加工して、整理し、必要な人に渡す」
そんな編集技術と労力、時間には、報酬を発生させるべきだと個人的には考えています。かなりのもの好きでなければ、誰もやりたがらない作業だからです。
地域資料をどのように使うのかは、やはり不特定多数の人の手に委ねられます。「“正しく”利用されるべきだ」「面白半分に使われたくない」「マネタイズには使われたくない」とコントロールしたいのであれば、やはり死蔵するしかないでしょう。
自分のほうが正しいと主張したいのであれば、ネット上などでその根拠を示し、繰り返しアピールする。
自分の持っている情報の使われ方をコントロールしたいのであれば、ネット上には公開しない。ただし、情報は活用されないまま、ひっそりと消えていく可能性が高い。
情報過多の時代に情報発信・継承をするうえで、ちょっと考えてみてもいいのかもしれません。

Leave a Comment