発達に凸凹があっても自然とコミュニティの一員になれる状況について、考えているところです

 「やればできるんだから! あなたはできるのよ」
 「なぜやらないの?」
 「ほかの人はできているのに、どうしてできないの?」
 「できるまで繰り返しがんばりなさい」
 「あなたはもういい。やらなくていいから」

 読む・書く・計算することを学ぶようになって、教師や親からこのような言葉を投げられた人もいるのではないでしょうか。

 耳から入った言葉は理解できるが、文字が読めない。音読ができない。
 ひらがなは書けるが、漢字や英単語が書けない。字がグチャグチャ。
 友達とは仲良くおしゃべりしているが、授業では消極的で上の空に見える。

 知的能力はあり、視力も聴力も悪くないのに、読んだり書いたりすることが非常に難しい……
 LD。学習障害で、発達障害の一つです。

 最近ではずいぶんと認知されるようになりましたが、もしかすると言葉だけが独り歩きして、実情が伝わってないのかもしれません。ときどき誰かを揶揄するときに「発達障害なんじゃない」といった言葉が使われることがあります。「発達障害はこの健康食品で治る」といった発言をする人間も出てきて、不安商法ではないかといら立ちを覚えたこともありました。

 以上のことから、LDの子どもや大人が抱えている困難さについて、多くの人に知ってもらうように働きかけたことがありました。

 すると、一部の人から率直な言葉が返ってきました。
 「確かに、LDは大変だと思います。しかし、そうでない私たちだって大変なんです」

 「困っている人がいるから理解してほしい」という態度が、心理的な反発を呼ぶのだと、この言葉で気づけました。

 もう一つ、発達障害の人から次のように言われたこともありました。
 「スピルバーグやトム・クルーズも発達障害ですよね? 発達障害の人には特別な才能があるっていうじゃないですか。そのことを、もっと周囲の人が配慮すべきだと思うんです」

 なるほど。確かに「発達障害の人には非凡な才能がある」とはいわれています。もしかしたらこの表現は、勇気づけのために使われてきたのかもしれません。ただ、当の本人が「自分は特別」という態度では、周囲の反発を呼ぶだろうと考えました。

 このような経験から、LDについての理解を求めるのではなく、LDであろうとなかろうと、自然にコミュニティの一員になれるような状況を作ろうと、方向転換をしました。

 具体的には、職の多様性。

 「自分の職を持つ」ことは、自分の能力を社会に役立てること意味するのでプライドにもつながるし、コミュニティにも参加しやすい状態にもなるはずです。
 ですから、せめて市川市内で、読む・書く・計算するといった事務作業が中心にならない仕事、大勢の中の一員として時間その他を管理されない仕事がもっと増えないだろうかと考えているところです。

 もちろん、少人数で行われる閉ざされた議論では独りよがりに陥りやすいので、もっと広く、もっと率直に検討し、考えを深めていけたらうれしいですね。


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