『考える障害者』で私も考えたシンプルな欲求「生まれて来ちゃった以上は生きたい。 それだけだ。」

 「自分なんか、死んじゃえばいいのに」
この言葉が頭に浮かぶようになって、数十年。今では「またか」と、すっかり慣れてしまいました。


特に理由やきっかけはなく、例えば階段を下りている最中に「自分なんか、死んじゃえばいいのに」とボソッと口から出てきたりするのです。10~20代の若い頃は、そんな自分に驚き、頭がおかしくなっているのではないかと不安になることもありました。


背景を探れば、親子関係など、いろいろと考えられますが、究明しようとしたところで逆効果だと悟りました。どんどん被害者意識が強くなっていって、親を恨み、周囲をねたみ、生きていくのが嫌になるのです。


年を取るにつれ、自分と同じような感覚に陥る人も珍しくなさそうだとわかってきて、やり過ごすようにしました。まあ、考えても仕方がないと。


それが、「自分なんか、死んじゃえばいいのに」を突き詰めて考えたと思われる人を見つけたのです。ホーキング青山さんでした。
Wikipediaには次のように書かれています。


先天性多発性関節拘縮症(せんてんせい たはつせいかんせつこうしゅくしょう)のため、生まれたときから両手両足は使えない。




生まれつき、関節の動きが一定方向に制限されてしまい(拘縮)、思いどおりには動かせないのです。そのため、子どもの頃から車いす生活を送ってきたようです。





そんなホーキング青山さんの著書『考える障害者』には、2016年に神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で発生した大量殺人事件も触れられています。
加害者の植松 聖死刑囚の「自分が何者であるかもわからず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので、殺害してもよい」と主張してきました。





この主張に対して、ホーキング青山さんは著書『考える障害者』で次のように述べています。


「この人は生きてていいか? 悪いか?」なんて問いを設定すること自体がおかしい。
 大抵のひとは、「生まれて来ちゃったんだから寿命が来るまでは生きたい」と思っている(個人的な事情で早く死にたい人のことはここではおいておく)。
 たとえ家族や職員にどんなに迷惑をかけても、世間から顰蹙を買うぐらい税金を使ったとしても、生まれて来ちゃった以上は生きたい。
 それだけだ。

上記の文章から、ホーキング青山さんについては、おそらく子どもの頃から、障害者という自分の存在について自問自答を繰り返していたのだと思ったのでした。


「この人は生きてていいか? 悪いか?」
「自分は生きてていいか? 悪いか?」
「自分なんか死んじゃえばいいんじゃないか?」


そんな問いなんて何の意味もないと、ホーキング青山さんはシンプルに、力強く打ち消しているのです。


自分自身を振り返れば、被害者意識が強くなっていったときに、わざと周囲を振り回して、傷つけるような行動を取っていました。
これは「私はつらい目に遭ったのだから、周りも同じような目に遭えばいい」という甘えにも似た心理だと、確かヴィクトール・フランクルの『夜と霧』に書かれていて、ドキッとしました。


ホーキング青山さんは、社会の中で働く目的は自己肯定感を高めることでもあると、著書の中で述べていました。
そう考えると、意味があるだのないだの、モヤモヤと考えて自己嫌悪に陥る以前に、自分の目の前にある勉強や仕事をきっちりと仕上げることが大事なのかもしれません。


そんなわけで、もしも10~20代で「自分なんか、死んじゃえばいいのに」に捉われてしまった子どもや若者がいたら、『考える障害者』を読むことをお勧めします。
私も10代の頃に読みたかった本ですが、ホーキング青山さんよりも年長なので、そもそも無理でした。


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