裁判は正義の実現手段ではない『裁判の原点』

裁判は正義の実現手段ではない

 そんな言葉で序文が始まる『裁判の原点』(著/大屋雄裕 河出書房新社)。



 告訴とは、告訴権者(告訴できる人)が、捜査機関に犯罪の事実を申告し、訴追を求める意思表示のことです。告訴権者とは、被害者または被害者の法定代理人のことです。

 そして裁判は 原告(告訴した人)による訴訟の提起があって機能する制度です(刑事訴訟では、検察官が起訴します)。

 起訴において求められた範囲で、その容疑について、有罪無罪を判断します。「当事者主義」といって、当事者の主張を、当事者が提出した証拠に基づいて、判断されるのです。主張していない部分については、判断材料にはなりません
 当事者同士が理性的な主張を繰り広げ、双方の主張に基づいた理性的な結論を、中立の第三者である裁判官が出すというシステムです。

 そもそも、裁判は手段であって、目的ではありません。
 何について争っていて、具体的にどのような解決を求めているのか、そして歩み寄れる結論を探り合うのが裁判です。

 多くの場合、訴訟の当事者は、自分の主張には正当な理由があり、自分が勝つのが正義だと信じ込んでいます。

 とはいえ、その主張・その正義を裁判所が認めるとは限りません。
 民事訴訟で、門前払いが「却下」。そして「棄却」は、適法な訴訟なので、審理したところ、原告の訴えを退けた場合を指しています。

 どんなときに、私たちの"正義"は認められないのでしょうか。

 「司法」とは「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」と説明されています。
 「具体的な争訟」(「法律上の争訟」)は、次の2つの条件が当てはまるもの。
①当事者間の具体的な法律関係ないし権利義務の存否に関する争いである
②法律を適用することにより終局的に解決できる

 ですから、以下のようなケースだと、争訟にならないわけです。
○具体的な争いがないのに、抽象的に法令の効力を争う場合
○学問上、技術上の判断の当否を争う場合
〈例〉国家試験に不合格になった人が不合格判定の取り消しを求める
○宗教上の教義に関する判断を争う場合


(最判昭 47.4.6)裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものに限られる

 上記に加えて、以下のようなケースも、争訟になりにくいとのこと。
○憲法が特別の理由から明文で認めたもの
○国際法によって定められたもの
○その他、法律上の係争ではあるが、事柄の性質上裁判所の審査に適しないと認められるもの

 最近、気になるツイートがありました。
 ある弁護士が、『パーソナリティ障害』(著/岡田尊司 PHP研究所)という本についてツイートをしただけで、名誉毀損で訴えられたのだそうです。

最近この本読んでる。自己愛性パーソナリティ障害の人は

・賞賛だけ欲しい
・自分の非を受け入れようとしない
・他人は自分を特別扱いするのが当然と思ってる
・自分の受ける苦痛は些細なことも我慢できない
・自分のやり方に注文をつける他人には激しく反撃に出る

らしいね。


 個人的に、この告訴は門前払いの「却下」ではないかと思っていました。しかし、結果は「棄却」。

誰がどう見ても明らかに「無理のある解釈」と思うような結論を引き出すために半年以上も裁判に対応させられ、原告であるはあちゅうさんは、一方的な被害者かのような発信を続けている。 

 自分としては「却下」レベルの告訴による裁判で、被告が半年も対応させられていることに驚きました。

いわゆる「訴訟狂」といって裁判を起こしまくるような人もいます

 なんとなく、日本人は裁判を敬遠するというイメージがあったのですが、現実は違うのかもしれません。

 私たちは学校でも「裁判とは何か」を詳しく教えられておらず、そのために濫訴が発生しているのかもしれません。


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