1300年前の下総の庶民の服を再現してみたいのだ 3 時代による変化がなかった理由
古墳時代、奈良時代、平安時代と、身分が高い人々の服装は、流行その他で変化したと教科書などで説明されています。
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| 『DVD付 学研まんが NEW日本の歴史 2 飛鳥の朝廷から平城京へ ~飛鳥時代・奈良時代』より |
しかし庶民については、時代による変化はなかったとネット上で説明されていることがほとんど。これは、貴族と庶民との間にあった、大きな格差によるものでしょう。
鎌倉時代に日本の米作りは進歩しましたと玉川学園のサイトに書かれています。
農業生産力は、時代とともに向上したと考えられます。
しかし、日本の人口については鎌倉幕府が成立した頃は757万人。室町幕府が成立した頃は818万人。
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| 市町村合併の推進状況についてより |
人口はそれほど増えていません。戦乱、病気、天候異変などで、生きること自体が困難だったのでしょう。
都の貴族はともかく、庶民にとっては生きるか死ぬかの毎日。
こうしたことも関係して、古墳時代から平安時代まで、庶民の服装は変化しなかった、あるいは変化する余裕がなかったのだと考えられます。
だからといって、人々が眉間にシワを寄せて生きていたわけでもないようです。平安時代末期の絵巻物「信貴山縁起絵巻」には、うわさ話を楽しんだり、犬にちょっかいをかけたりしている庶民の笑顔がいきいきと描かれているからです。日々の生活の中で、小さな楽しみをちょっとずつ見つけながら、暮らしていたようです。この点では、現代人と変わりません。
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| 「信貴山縁起絵巻」Wikipediaより |
庶民の女性の服装は、浴衣のように前開きの服を羽織って帯(紐)を締めたり、上の絵の右側のおばあさんのように、ズボンのようなものをはいたりしていたようです。
髪については、伸ばしっぱなしに近い状態を、体の後ろ側で緩く結うスタイルの模様。
「信貴山縁起絵巻」では、大人の男性のほとんどが烏帽子をかぶっています。平安時代には、庶民も日常的に烏帽子をかぶるようになったようです。
協同組合西日本帽子協会のサイトには、以下のように書かれています(そのまま引用)。
奈良時代に官制が定められ、68三年(天武11年)に漆紗冠と圭冠ができたが、後者が発展して烏帽子となった。烏帽子は、奈良時代から江戸にいたる男子のかぶりもので、黒の紗、絹などで袋状に作ったやわらかなもので、本来は日常用のものであった。朝廷に出仕するときは冠をかぶり、日常は一般庶民と同様に帽子をかぶったわけである。
ちなみに住居は竪穴住居(竪穴式住居)。
竪穴住居と聞くと、「縄文時代じゃないか!」とつい思ってしまうのですが、によれば、奈良時代や平安時代でも、庶民の一般的な住居だったとのこと。
和樂webでは、島原の乱(1637~38年)を描いた「島原陣図屏風」にも竪穴住居が描かれているとのこと。
つまり江戸時代でも、竪穴住居が存在していたということになります。
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| 福島県文化財センター白河館サイトより |
福島県文化財センター白河館の「奈良時代竪穴住居跡の復元」という資料には、復元案も掲載されていました。
手児奈が生きていた1300年前の奈良時代。房総半島については、政治・文化の中心だった奈良県からは遠く、中国(当時は唐」との経由地でもありませんでした。
なかでも国府台は、崖の上は稲作が不向きで、崖の周りは気水域。
なにより、人口が少なかったので、のんびりとした暮らしが送られていたのではないかと想像しています。
手児奈をはじめ、人々はけっこうおしゃれだったのではないでしょうか。9万~12万年前の人類でさえ、装飾目的で服を着た可能性が示唆されているからです。
下の写真のような服装(復元)を、まるでユニフォームのように、集落の人全員が着ていたとは思えないのです。
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| 古墳時代の庶民の服装 IPA教育用画像素材集より |
「縄文時代は貧富の差がない平等な社会だった」「弥生時代から稲作が始まった」といった定説が、次々と覆されています。服装についても、「縄文時代はおしゃれだったが、弥生時代以降はそうでもない」という定説どおりではないと考えています。
■参考資料
信貴山縁起絵巻:信貴山縁起絵巻3:尼公の巻







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