パレスチナ問題覚書
中東で「パレスチナ」と呼ばれる地域は、現在のイスラエルとパレスチナ自治区、そしてヨルダン・レバノン・シリアの一部を含みます。
長年、オスマン帝国(オスマン・トルコ、オットマン帝国)がパレスチナを支配していました。当時は、アラブ人が多数派、ユダヤ人が少数派で、ほかに少数の民族集団もいました。
長年、オスマン帝国(オスマン・トルコ、オットマン帝国)がパレスチナを支配していました。当時は、アラブ人が多数派、ユダヤ人が少数派で、ほかに少数の民族集団もいました。
1914~1918年の第一次世界大戦で、オスマン帝国はドイツ側につきました。
そこでイギリスは、大戦中の1916年5月、ロシアとフランスとの間で「サイクス・ピコ協定」を結びました。戦後のオスマン帝国領分割に関する秘密協定です。イギリスの中東専門家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコによって原案が作成されたので、この名がつきました。
1915年10月に、「フサイン・マクマホン協定(マクマホン宣言)」が結ばれました。イギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンが、メッカ太守フサイン・イブン・アリーと結んだ協定です。イギリスは、オスマン帝国との戦争(第一次世界大戦)に協力することを条件に、オスマン帝国の配下にあったアラブ人の独立を承認すると表明していたのです。
ところが、1917年には「バルフォア宣言」が出されます。イギリス外相のアーサー・バルフォアは、イギリスに住むユダヤ人(ウォーター・ロスチャイルド)に対する書簡で、ユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示しました。
サイクス・ピコ協定とフサイン・マクマホン協定、さらにバルフォア宣言という、矛盾した協定をイギリスが結んだことから、「三枚舌外交」と呼ばれました。現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因は、三枚舌外交だといわれています。
第一次世界大戦が終わった1918年に、イギリスはパレスチナ統治を開始。同じく1918年に、フサイン・マクマホン協定を受けて、ヒジャーズ王国をアラビア半島のヒジャーズ地方(紅海沿岸)ができました。
イギリス委任統治領パレスチナは、1922年設立の国際連盟で承認されました。
○イギリスの直轄支配を受けるヨルダン川より西側→パレスチナ
○ヒジャーズ王国の王族が治めるヨルダン川より東側→自治領トランスヨルダン
![]() |
Wikipediaより |
ユダヤ人にとっては、パレスチナは先祖の土地です。第一次世界大戦中から、パレスチナへ流入するユダヤ人は増え続けていました。しかしパレスチナのアラブ人も、ここは自分たちの土地だと主張し、ユダヤ人の国をパレスチナに作ることに反対しました。
1939~1945年の第二次世界大戦では、1941年にイギリス軍人・政治家のアンソニー・イーデンが、アラブ諸国が三国同盟(ドイツ・イタリア・日本)につくことを避けるために「アラブ連盟」を構想しました。
そして1945年に、アラブ連盟が創設されました(本部はエジプトのカイロ)。
1941年に、イラクのバグダードで「ファルフード」と呼ばれる、ユダヤ人迫害事件が起こりました。諸説ありますが、150人以上のユダヤ人が命を奪われ、多数の負傷者が発生し、家財は略奪されました。
大戦中には、パレスチナへ流入するユダヤ人はさらに増えました。大勢がヨーロッパでの迫害、とりわけ東欧で、ナチス・ドイツによるホロコーストを逃れるためでした。また、イラクのファルフードも一因です。
第二次世界大戦後の1947年に、パレスチナを分割して、アラブ人とユダヤ人の国をそれぞれ作り、エルサレムはそれとは別の国際都市にするという決議案が、国際連合の総会で可決しました。
ユダヤ人団体の指導者たちはこの国連総会決議を受け入れたのですが、アラブ側は拒否。この決議は実施されずに終わりました。こうした中、ユダヤ人とアラブ人の軍事組織の戦闘は激化していました。
○第一次中東戦争 1948~1949年
問題が解決できないまま、1948年に、イギリスはパレスチナから撤退(放棄)しました。ユダヤ人指導者たちはただちに、イスラエル建国を宣言しました。この新国家は、迫害を逃れるユダヤ人の安全な避難先となると同時に、ユダヤ人にとっての民族的郷土となるべきものとされました。
イスラエルが建国を宣言した翌日、アラブ連盟に加盟するシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトの5カ国が、イスラエルを一斉攻撃しました。これは「アル・ナクバ(大災厄)」と呼ばれています。
1949年に停戦が実現するまでの間に、イスラエルはパレスチナのほとんどを支配するようになっていました。和平協定のないままの停戦だったため、この後も何十年にわたり戦争や戦闘が続きました
ヨルダンは「ヨルダン川西岸」と呼ばれる地域を支配し、ガザ地区はエジプトが支配しました。ガザ地区はイスラエル、エジプト、地中海に挟まれた全長41キロ、幅10キロの領土。19年間、エジプトに占領されました。
![]() |
外務省サイトより |
エルサレムは、イスラエル軍が西側を、ヨルダン軍が東側を支配しました。
○第二次中東戦争 1956年
「スエズ戦争」や「シナイ作戦」とも呼ばれています。
エジプトがスエズ運河を国有化し、それを妨害しようとしたイギリスとフランスがイスラエルと密約を結んで、エジプトに侵攻しました。
国際世論はエジプトを支持する声が強く、イギリスとフランス、イスラエルの侵略行為は非難されました。そして、国際連合の停戦勧告を受け入れて、イギリスとフランス、イスラエルは撤退を表明しました。エジプトは戦争では敗れましたが、スエズ運河の国有化は守られました。
○第三次中東戦争 1967年
1964年に、パレスチナ解放機構(PLO)が結成されました。アラブ諸国で不穏な動きのあると考えたイスラエルが、エジプト・シリア・ヨルダン・イラク領空を侵犯し、各国の空軍基地を奇襲攻撃する「フォーカス作戦」を実施。これがきっかけで、戦争が起こりました。
この戦争を経て、イスラエルは東エルサレムとヨルダン川西岸、シリアのゴラン高原の大半とガザ地区、そしてエジプトのシナイ半島を占領しました。
この戦争でイスラエルはガザを占領し、その間、ガザにイスラエル人の入植地を作り続けた。
○第四次中東戦争 1973年
エジプトとシリアが領土回復を目指して、イスラエル軍を奇襲攻撃したことがきっかけでした。 緒戦は勝利したものの、イスラエルの反撃を受け、それを支援するためにアラブ諸国が石油戦略を採り、石油価格が急騰しました。
シナイ半島については、1978年のキャンプ・デービッド合意で、イスラエルがエジプトへの返還に合意。翌年のエジプトとイスラエルの平和条約調印を経て、1982年4月までにエジプトに返還されました。
1987年12月、ガザ地区でハマスが設立されました。社会福祉活動を行っていた団体が、第1次インティファーダ(イスラエルに対するパレスチナ住民の大規模な蜂起)を受けて、実力行使部隊を伴って形成されたのです。
1990年代には、外交交渉による和平の実現は可能かもしれないと思われていました。ノルウェーで続いた秘密協議はやがてオスロ和平交渉となり、1993年にアメリカのビル・クリントン大統領が見守る中、ホワイトハウスの庭で「オスロ合意」の調印式が行われました。オスロ合意をもとにできたのがパレスチナ自治政府で、ガザ地区の自治を行うことになりました。
当時、イスラエルの野党党首だったベンヤミン・ネタニヤフは、オスロ合意がイスラエルの存続を危うくするものだと非難しました。イスラエルは、パレスチナ自治区で入植活動を加速させました。
一方、ハマスは、戦闘員をイスラエルに送り込みました。
イスラエル国内では反パレスチナの風潮が高まり、対立が激化しました。
1995年11月4日には、オスロ合意の当事者だったイスラエルのイツハク・ラビン首相が、和平反対派のイスラエルの青年に暗殺されました。
2003年には「2国家共存」という目標に向けた、アメリカをはじめとする世界の主要国が編み出したロードマップ(行程表)がありましたが、これも結局は実施されませんでした。
2005年にイスラエルはガザ地区から軍と入植者を撤退させましたが、上空と境界線、海岸線を支配下に置いています。
ハマスは2006年1月、パレスチナ立法評議会の選挙で過半数の議席を獲得し勝利。ヨルダン川西岸を基盤とする穏健派ファタハを率いるマフムード・アッバス自治政府議長を追い出しました。
それ以来、ハマスはイスラエルとの戦いを繰り返しました。ガザ地区は現在、ハマスが実効支配しています。ハマスは、イスラエルの破壊を目標に掲げ、多くの国からテロ組織としてされています。
イスラエルはエジプトとともに、ガザ地区を部分的に封鎖し、ハマスを孤立させ、イスラエル都市へのロケット弾発射など攻撃をやめさせようとしました。
2014年にアメリカのワシントンで行われた、イスラエルとパレスチナの交渉が破綻したのを境に、中東和平協議はストップ。
ドナルド・トランプ政権のアメリカは、2020年初めに中東和平案を発表しました。2020年に、アラブ首長国連邦、バーレーン、スーダン、モロッコとの間で、イスラエルは国交正常化を合意。イスラエルのネタニヤフ首相が「世紀の取引」とたたえましたが、パレスチナ側は一方的すぎると一蹴。
2023年になるとヨルダン川西岸と東エルサレムでは対立が悪化し、パレスチナ人の死傷者数は過去最多を記録しました。
2023年10月7日朝、ハマスはイスラエルに攻撃を開始しました。約2500人の戦闘員が、ガザに近いイスラエル領内に侵入。イスラエルでは、約1400人が殺害されたと報じられました。200人近い兵士や民間人(女性や子どもを含む)が拉致され、人質にされてガザ地区へ連行されたとのこと。
この攻撃を受けてイスラエル軍はガザ地区への空爆を開始。パレスチナの保健当局は17日、これまでに約3000人が死亡したと発表しました。
イスラエルはガザ地区を完全封鎖し、食料や水やエネルギーなど生活必需品の供給を遮断。
イスラエル軍は3万人以上の予備役を招集し、大部隊をガザ地区の境界線沿いに集結させました。
イスラエルはガザ北部の住民110万人に対し、ガザ南部への退避を通告。このため、一気に避難民が押し寄せた南部では、寝泊まりする場所や物資が欠乏しています。
イスラエルはヨルダン川西岸地区を占領し、エルサレム全体がイスラエルの首都だと主張しています。国際社会では、エルサレムをイスラエルの首都と承認する国はアメリカ、ホンジュラスなどごく一部に限られています。日本を含む国際社会の多くは、エルサレムをイスラエルの首都と認めていません。
一方、パレスチナ人たちは、いずれ建国されるであろうパレスチナ国家で、東エルサレムが首都になると主張しています。ただ、過去50年の間にイスラエルは、ヨルダン川西岸と東エルサレムに入植地を作り続け、そこに住むイスラエル人は70万人以上に達しています。
国連安全保障理事会は、国際法上、こうした入植地は違法だという立場を取っています。
パレスチナ難民は、ガザ地区とヨルダン川西岸地区、近隣のヨルダン、シリア、レバノンに住んでいます。
ガザ地区は、約230万人が暮らし、世界で最も人口密度が高い地域の一つ。
10月7日以降、イスラエルはガザ地区を完全封鎖し、空爆を続けています。10月15日にイスラエル軍はレバノン国境から4キロ以内を軍事封鎖区域に設定し、一般人の退避と立ち入りを禁止しました。
アメリカや欧州連合(EU)など、西側諸国はハマスの攻撃を非難しています。
これに対してロシアと中国は、ハマスを非難せず、紛争の双方と連絡を取り続けているのだそうです。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、中東に平和が実現していないのはアメリカのせいだと非難しました。
そして、イランは、ハマスの後ろ盾になると同時に、イスラエルと対立するレバノンの武装勢力ヒズボラも支援しています。
![]() |
https://www.sozai-library.com/sozai/7523より |
■参考資料
Leave a Comment