宗教の複雑な世界観は、どうしてできちゃったのかな問題 その5 答えはscholeだろう
インドでは、紀元前1200年から『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』が作られ始めました。紀元前900~紀元前500年には『ブラーフマナ』、紀元前600年には『アーラニヤカ(森林書)』、そして紀元前1000~紀元前500年には『ウパニシャッド(奥義書)』が作られます。
どうしてこれほど多くの文献が成立したのでしょうか。
理由は古代ギリシャ語のschole(スコレー)、つまり暇だったからだと考えられます。
インドにはヴァルナ(カースト)制度があり、バラモン(ブラーフマナ)・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラに分けられています。2011年の国勢調査によると、インドの人口でバラモンの割合は約5%とのこと。少ないですよね。きっとクシャトリアも少なく、紀元前1200年の頃から庶民・奴隷のヴァイシャ・シュードラの割合が多いのではないかと考えられます。
働かない人々は何をするのでしょうか。
その典型例が、古代ギリシャにあります。やることがないから、広場に集まって、「人間とはなんだ?」「自然とはなんだ?」など、生活にまったく関係ないことで議論を行うわけです。そのため、ソクラテスは妻から水をぶっかけられたとのこと(※)。
インドでも、5%程度の働かない人たちによって、抽象的で理屈っぽい話し合いがなされたのでしょう。『アーラニヤカ(森林書)』は、森や林など人里離れた場所で語り合うために編纂されたようなので、「働く気がないよね」と思います。
『ウパニシャッド(奥義書)』の内容については、次が挙げられていました。
〇祭式に用いられる言葉の真の意味とはどういうものなのか、
〇人間の思索はどういうものであるべきか、
〇生きとし生けるものはどんな性質をもっているのか、
〇宇宙の本質は何か
紀元前8世紀前後に、ウッダーラカ・アールニという哲人が登場しました。ウパニシャッド文献に出る最大の思想家の一人とのこと。
特にウパニシャッドの中心思想と目され,かつ後世に最も大きな影響を与えたのは,〈梵我一如(ぼんがいちによ)〉の思想である。これは,宇宙の本体としての〈ブラフマン(梵)〉,および人間存在の本質としての〈アートマン(我)〉とをそれぞれ最高の実在として定立したうえで,この両者が本質的には同一であって,その同一性を悟ることによって解脱が得られると説くもので,《リグ・ベーダ》末期以来徐々に発展しつつあった一元論的傾向が,いちおうの頂点に達したものと考えられる。代表的思想家としては,梵=我を純粋の認識主体と考えてその精神性を強調し,観念論への道を開いたヤージュニャバルキヤ,および〈実有sat〉としての梵我を第一存在として,〈実有〉からの宇宙発生を説いたウッダーラカ・アールニの両者が挙げられる。〈梵我一如〉の思想は,のちにベーダーンタ学派に継承され,インドにおける最も有力な思想となった。また,ウパニシャッドにおいてはじめて明示された〈輪廻〉の思想,および輪廻の原因としての〈業〉の思想は,以後のインド思潮全般に絶大な影響を与えた。
ちょっとよくわからないのですが(汗)、ともあれ、「ウパニシャッドにおいてはじめて明示された〈輪廻〉の思想」では、業(カルマ)によって生と死を繰り返す、つまり生まれ変わるということ。「死んだら、はい、終わり」というわけにはいきません。輪廻は苦悩。
輪廻転生がもたらす業が、人生に影響を及ぼしている「因果応報」、前世・現世・来世、親の影響(「親の因果が子に報い」)自分の業が回帰してくる「自業自得」という考え方が生まれてきました。
そして、業のもとになる欲望を滅却すれば輪廻がなくなるのではないか、欲望を滅却するためには苦行や瞑想が有効なのではないかと考えられたようです。
紀元前5世紀、仏教を開いた釈迦(ブッダ)が登場します。
釈迦は若い頃にバラモン教の苦行・瞑想に励んだものの、苦悩も欲望もなくならないことに気づきました。そして、輪廻転生が恐いのは、渇愛(かつあい)や無明(むみょう)が原因で、これを脱するには智慧を持つことだと。
仏教のほかにジャイナ教など新たな宗教が生まれてきたので、バラモン教も変わらざるを得ない状況になったようです。
紀元前4世紀にパーニニが、古典サンスクリット語の文法を集大成して『アシュターディヤーイー(パーニニ文典)』をまとめました。
それから、ヴェーダの権威を認める「六派哲学」が生まれます。
〇サーンキヤ(数理派)因中有果:すべての事象は原因の中にすでに結果が包含されている
〇ヨーガ(行法派)
〇ヴェーダーンタ(思惟派)
〇ミーマンサー(祭祀文法派)
〇ニヤーヤ(論理学派)
〇ヴァイシェーシカ(自然哲学派) 因中無果:原因と結果の関係にはそれほどの必然性がない
『クラナリ』編集人には理解が及ばない点がほとんどですが、ここまでザックリと見てくると、「宗教の複雑な世界観は、どうしてできちゃったのかな」の答えはscholeだろうと。
現代の世界宗教が、1500~3000年前に北半球の亜熱帯地方で出現したのは、定住生活を送り始め、人口が増えて社会ができたとともに、働かない人たちが一定数生まれたことも関係している気がします。
※古代ギリシャの「働かない人々」については、さまざまな資料が見つかりました。
古代ギリシャの哲人たちは,労働は卑しく,呪いに満ちたものと見なしていたので,自由な市民は労働しないことを徳と考えていた。古代ギリシャ人のこのような市民と奴隷の区別は,かの哲人アリストテレスも容認していた。すなわち,『政治学』の中で,労働から解放された市民だけが,思考の自由を保持することができるとした。特に耕作や物を作る作業は肉体労働の典型なので,肉体労働をすれば思索の余裕など持てるはずがなく,市民はそれに従事すべきでないとした。
暇、つまり働くことから免れた自由市民たちが三々五々集まって、日がな哲学・幾何学といった学問、音楽、体育などに明け暮れる場所が暇人たちの場所(スコレー)と呼ばれ、それがスクールの語源になりました。もっとも有名なのは、紀元前385年頃、プラトンがアテネの郊外に開いた学園アカデメイアでしょう。「ピタゴラスの定理」(三平方の定理)一つとっても、その水準は現代科学を基礎づけるほど高度だったのですが、地面や砂に描いた図形でよくぞ幾何学を考えたものです。そのことには「イデア論」という考え方を知らなければならないのですが、それはまたいずれ。
はっきりいって、ギリシア人は ひま人 でした。直接民主制 がとられていたポリスでは、青年男性は民会に参加することもありましたが、 主な労働は奴隷が担っていました。時間に余裕のあるギリシア人は、次第に 身の回りの現象(自然)について考えるようになりました。これが 自然科学 の始まりです。
本村先生 「議論や熟考を経て答えを導き出し、若い人たちに伝える。それが知を愛する哲学となったわけです。ただ、興味がない人から見ると、おしゃべりばっかりしているように見えますから、ソクラテスの妻は夫が働きもせずに、しゃべっているだけだっていうので、イライラして夫に水をぶっかけていた。ソクラテスは少しも動じず、『必ず結婚しなさい、よい妻を持てば幸せになれる、悪い妻を持てば哲学者になれる』という名言を残したわけですね。」汰雅 「そんな議論ばかりしていて生活ってできるもんなんですか?」本村先生 「古代ギリシャ時代は奴隷がいましたから、彼らが大半働いている。資産のある市民とか、貴族たちは当然働かなくてもよかった。」
一般の古代ギリシャのアテナイ市民は、2人~4人の奴隷を所有していて、自ら働く必要がありませんでした。そのため、奴隷ではない人間が自分で働くことは軽蔑の対象となったのです。「基本的に週休7日で労働時間0なんだったら、じゃあ古代ギリシャの市民は普段何してるんだよ?」というと、「schole(スコーレ)」です。訳すと、「自由時間」、「ゆとり」、「閑暇」「余暇」「レジャー」……つまり、ヒマな時間を謳歌していました。古代ギリシャ人には、「時間を無駄にする」という概念はほとんどありません。ボーっとしている時間、誰かとおしゃべりしている時間……積極的に自由に使える時間があることは、文明的な生活を送るための必要条件だったのです。哲学者アリストテレスは、人間が人間でいるためには、労働ではなく「schole(ヒマ)」こそが重要だ、と言っています(『政治学』)。そして彼らはその中で政治的行為、学問、哲学をしていました。哲学は古代ギリシャで花開きましたが、やはり「『美しい』とは何だろう」「人間とは何だろう」というような考えは、ある程度ヒマがないと浮かんでこない問題かもしれません。明日が納期という時に、「部長……人間ってなんすかね?」「うん君、いい質問だね。人間というのは万物の尺度だと思う」……などという会話をする余裕はなかなか生まれません。このように、古代ギリシャ人にとっては、すべての人間的で文明的な活動は、「ヒマな時間」から生まれるものでした。ヒマがあって初めて人間は学び、考えることができる……だからこそこの古代ギリシャ語で「ヒマ」を表わす「schole」が、英語の「学校(school)」の語源になっているのです。
『古代ギリシャのリアル』(著/藤村シシン 実業之日本社)
※※現代のインドでは、ヒンドゥー至上主義によってムスリム(イスラーム教徒)などを弾圧する動きがあるとのこと。複雑な世界観、そして多様な神々はどこへ……
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| 幸せを呼ぶインドの神様事典 |
第2に、モディ政権が成立して以降、インドの国是ともいうべき「世俗主義」の理念ははるか後景に退き、それに代わって「ヒンドゥー至上主義」が政治の中心的空間を占めるようになった。ヒンドゥー至上主義とは、人口の約8割(2011年国勢調査)を占めるヒンドゥー教徒が一体不可分の存在であるという前提に立った上で、インドを「ヒンドゥー教徒のヒンドゥー教徒によるヒンドゥー教徒のための国」にしようという、きわめて排他的な政治思想である。
1925年に創設された民族奉仕団(RSS)はヒンドゥー至上主義の中心的組織であり、与党BJPの支持母体として知られる。現在、「インド独立の父」と呼ばれるM・K・ガンディーの暗殺者を輩出し、ファシズムとも歴史的に深いつながりを持つRSSの関係者が、政府・与党の要職を多数占めている。RSSのなかでめきめきと頭角を現し、ついには首相の座にまで上り詰めたモディは、その筆頭というべき存在である。
モディ政権の10年で、ヒンドゥー至上主義の「理想」の実現を目指して、宗教的少数派を狙い撃ちにした差別的な法律が次々と成立した。特に、人口の14.2%を占める、最大の宗教的少数派であるムスリム(イスラーム教徒)は、その主要な標的となっている。それだけにとどまらず、あからさまなヘイトから直接的な暴力に至るまで、あらゆる手段に訴えながらムスリムを「二等市民」のような立場に追いやろうとする組織的な動きも顕著になっている。
このような「経済の脱イスラーム化」の呼びかけはもちろん、ムスリムの大量虐殺を示唆するような発言であっても、警察による取り締まりは一切行われず、完全に野放しになっている(※8)。
ガンジーやネール(初代首相)らが率いた独立運動の政党、国民会議派は、多民族・多宗教国家を守るために、インド憲法に信教の自由の保障と宗教による差別の禁止を盛り込み、政教分離のセキュラリズム(世俗主義)を国是に掲げた。一方でインドには、ヒンズー教を絶対的なものと考え、イスラム教徒など少数派を敵視する右翼的なヒンズー・ナショナリズムも早くから存在していた。

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