コロンブスと奴隷制
ヨーロッパ中心史観を修正して、これまで「周辺」とされてきた植民地だった地域などから、世界の歴史を捉え直す動きがあります。
その一つといえるのかはわかりませんが、2020年にはアメリカでコロンブス(1451-1506年)の銅像の破壊が相次いだとのこと。
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コロンブスの像(photo/Valery Anatolievich) |
米国史の中でコロンブスは、先住民に対する扱いや、多大な犠牲を出した暴力的な植民地化への関与をめぐって論議を巻き起こす存在だった。ここ数年は、コロンブスの米大陸到達を記念した「コロンブス・デー」の祝日をやめて、コロンブスなど欧州の探検家が先住民に与えた苦難をしのぶ「先住民の日」に置き替える自治体も増えている。
コロンブスは、アメリカ大陸を発見した冒険家・探検家として紹介されてきました。
ただ、「アメリカ大陸を発見した」点でも微妙なばかりか、「発見」というのは当時のヨーロッパの視点で、この地に住んでいた先住民にとっては当然ですが既知の大陸。また、コロンブス一行は、先住民に残虐な行為を行い、奴隷としてスペインに連れて行くなど、今では「おぞましい」と見なされる行為を多数行っていました。
そんなコロンブスが、どうして冒険家として英雄視されたのでしょうか。
アメリカメディアのVox Mediaによると、アメリカの独立と関係しているようです。
1776年、アメリカ独立宣言で、イギリス(グレートブリテン王国)によって統治されていた北アメリカの13植民地が独立しました。その際に、ヒーローが求められたとのこと。
「独立自尊の精神を持ち、どこか反抗的な、非イギリス的なシンボル」、つまり、アメリカという国はアメリカ国民統合の象徴を必要としていた。そこに抜擢されたのが「コロンブス」だったという。
こうした流れの中で、アメリカでは道や町にコロンブスという名がつけられました。
また、1828年に作家のワシントン・アーヴィングが出版したコロンブスの伝記については、「『勇敢で』『天才』『ヒーロー』的存在と、美化して書かれているが、先住民に対する残虐行為、子供や高齢者、妊娠中の女性などを虐殺したことについては一切触れられていない」とのこと。
もう一つ、コロンブスがイタリア人だったことも関係しています。イタリアからの移民にとって、コロンブスはやはりヒーローだったようです。
こうしてアメリカでは、実像とかけ離れた"コロンブス神話"が生まれたようです。
ただ、コロンブスが特別に残虐な人物だったかというと、そうともいえない、これまた微妙なところがあります。
歴史を振り返れば、次のことが考えられたからです。
「コロンブスだろうと、そうでなかろうと、当時、ヨーロッパからアフリカやアジアなどへ航海をした人物は同じような行動を取ったかもしれない」
コロンブスが「アメリカ大陸を発見した」とされる1492年頃は、「奴隷制はごく当たり前」「異教徒は奴隷にしてもよい=人間扱いしない」という世の中だったようです。これはキリスト教に限らず、イスラームでも同様でした。
今では「あり得ない」と嫌悪感を抱いてしまう奴隷制ですが、人間の歴史の中ではかなり長い間続いた制度です。
紀元前4000年代の終わり頃のエジプトには奴隷制があったほか、紀元前2300年頃のメソポタミアの粘土板碑文には奴隷交易の記述があるとのこと。
中国の古代王朝の殷でも、中南米のアステカでも、奴隷制があったことがわかっています。
もちろん日本も、「倭国王・帥升が、生口(奴隷)160人を安帝へ献上した」と『後漢書』の東夷伝に記録されています(107年の出来事)。
文明があるところには、洋の東西を問わず、奴隷制もあった模様。
私たちの祖先がグループを大きくしていく中で、集落ができて、農耕が始まったと『宗教の起源』(著/ロビン・ダンバー 白揚社)で紹介されています。
集落を作った理由は、他のグループとの争いに備えるため。
争いに負けたグループは財産を奪われるだけでなく、捕虜になって働かされます。こうして奴隷制が生まれたのだと考えられています。
Wikipediaによると、奴隷制が初めて廃止されたのは、1791年のハイチ革命後。233年前ですから、最近のことですよね。
ちなみに、ヨーロッパで「奴隷貿易がなくなったのは人道的な理由というよりはむしろ、経済的な理由によるところが大きかった」と宇山卓栄氏は語っていました。奴隷貿易が儲からないから、もうやめようということ。
紀元前4000年から始まって、6000年近くも続いた(もちろん、ほかの地域ではもっと長く続いた)奴隷制。
コロンブスが生きた時代でも、奴隷制は当たり前のことだったのでしょう。
アフリカ人奴隷貿易の始まりは1441年。ポルトガル人アントン・ゴンサウヴェスが、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女927名の一部をポルトガルのエンリケ航海王子(1394-1460年)に献上したのが最初のことだと、Wikipediaに書かれていました。
1455年(1452年という説も)にローマ教皇のニコラウス5世が出した勅書「ロマヌス・ポンティフェクス」では、異教徒の奴隷を購入する権利をポルトガル王に認めた形となっています。アフリカ人奴隷貿易は、キリスト教(カトリック)のお墨付きを得たわけです。
1482年、アフリカ人奴隷貿易の拠点として、ポルトガル人は現在のガーナにエルミナ交易城砦を作りました。ここをコロンブスは訪れていたとのこと。
もともとコロンブスは、イタリアの零細毛織物業者の息子で、その経歴を見ても根っからの商人。山師ですよ、山師。「大儲けしてやろう」と思って、お金を集めて航海したわけです。単なる冒険好きではありません。
そんなコロンブスと奴隷制について、『クラナリ』編集人が調べるきっかけとなったのは、あるアーティストのMVが炎上を招き、公開中止と謝罪を招いたからでした。コロンブスの現在の評価を知っていたら、この炎上はなかったでしょう。
なぜ知らなかったのでしょうか。
それは、私たちにとって奴隷制は黒歴史だからだと思うのです。
日本にも奴隷制はありましたが、『クラナリ』編集人については、教科書に記載されていた記憶はまったくありません。
奴隷に関する問題は世界中でいまだ非常に繊細な問題、いっそ最初から奴隷制をなかったことにしたいくらいの、一種の拒絶反応でしょう。
アメリカの南北戦争では、どうしても奴隷制に触れざるを得ないものの、その他についてはスルー。
その結果として、日本のアーティストも、レコード会社も、広告代理店も、飲料水メーカーも、MVはおろか曲名自体が抱えていた繊細な問題に気づかなかったのだと推測します。
子ども向け伝記ではヒーロー扱いのコロンブスですが、彼の存在自体、さまざまな問題を抱えています。それはコロンブス本人がというよりも、価値観の大きな変化や政治的思惑などが招いたもので、また時代が移れば問題の質も変わっていくことでしょう。
『クラナリ』編集人は無名の人間で炎上など起こす可能性はゼロに近いのですが、歴史的人物への評価の変化などはキャッチアップしていきたいと、今回の騒動で思いました。
〇コロンブス(Christopher Columbus)の生涯
1451年
イタリアのジェノバで生まれる。父親は。零細毛織物業者。ジェノバの有力貿易商会に身を置いて、商いと航海の生活に入る。
1474~75年
エーゲ海のキオス島への乳香の買付け航海に参加。
1476年5月
商船隊に乗船してフランドル(現在のオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にまたがる地域。英語名はフランダース)へ向かったが、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖でカスティーリャ継承戦争(1475~1479 年にカスティーリャ王位の継承を巡って争われた軍事紛争)に巻き込まれ、炎上する甲板から海中に逃れて、泳ぎついたラゴスの浜からリスボンへ向かう。
1477年
救援船に再乗船しイギリスへ行き、リスボンに戻る。
1478年
砂糖の買い付けのためポルトガルのマデイラ島を訪れる。マデイラ島ではポルトガルのドン・ドゥアルテ王(在位1433-1438念)が、大規模に砂糖製造を行うことを決めたので、ヨーロッパにおける砂糖の一大生産地となっていた。
1480年
マデイラ諸島のポルト・サント島初代総督バルトロメウ・ペレストレロの娘フェリパと結婚。
1481年
長男ディエゴが誕生。
1482~1483年
アフリカ西海岸南下の航海に出かけ、外洋での航海に必要なデータをつかむとともに、エルミナ交易城砦(現在のガーナ、1482年にポルトガル人によって建てられた城)に訪れて黒人奴隷取引の実際を見聞した。
※1441年にポルトガル人アントン・ゴンサウヴェスが、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女927名の一部をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したことが、アフリカ人奴隷貿易の始まり。
1483年
航海計画案をポルトガル国王ジョアン2世に提案した。しかしアフリカ西海岸南下の航海が着実な成果を挙げている中での交渉は、費用の負担や見返りの報償などが原因でまとまらなかった。
1485年
妻が亡くなり、息子ディエゴを連れ、隣国カスティーリャへ向かう。
1486年1月
スペイン王国の女王イサベル1世(在位1474-1504年)に航海計画を提案した。提案はタラベラ神父が主査する委員会に付託されたが、当時、イサベル1世はイスラーム勢力最後の拠点であるグラナダの攻略に全精力を注いでおり、最終判断が出ないまま数年が経過。この間、ポルトガル王と再交渉したり、実弟バルトロメをイギリス王・フランス王へ派遣したり、自らもフランス王のもとに向かう決意をした。
※1479年(1496年という説も)に、アラゴン王国とカスティーリャ王国は、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の結婚という形で、連合王国を形成。カスティーリャ=アラゴン連合王国、すなわちスペイン王国(イスパニア王国)が成立した。この2人の王は「カトリック両王」と呼ばれる。
※熱狂的なカトリック教徒であったイサベル1世は、他宗教の民衆を執拗に追放・殺戮し、また他宗教からキリスト教へ改宗した民衆にたびたび異端審問を行い、財産の没収・追放・処刑などを行った。
1488年
カスティーリャのコルドバで一緒に暮らしていたベアトリス・エンリケス・デ・アラーナとの間に、次男エルナンドが誕生。
1492年1月2日
イスラーム勢力の最後の拠点であるナスル朝の首都グラナダの陥落。718年から始まった国土回復運動(レコンキスタ)の完了。
1492年4月17日
アントニオ・デ・マルチェーナ、フアン・ペレス、ディエゴ・デ・デサなどの聖職者、ルイス・デ・サンタンヘル、ガブリエル・サンチェスらの宮廷人などの助力もあり、航海実施の合意が成立(サンタ・フェの協約)。
この協約により、コロンブスは世襲職として「提督」の地位が、また終身職として「副王にして総督」の地位が約束された。加えて、新しく発見される地域から得られるであろう利益の10分の1を取得する特権、今後の交易活動に対し最高8分の1の資本参加特権などが承認された。航海の準備はピンソン3兄弟の協力を得て進められた。
1492年8月3日
サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻に120名の乗組員を乗せて、カスティーリャのパロスの港から航海に出発した。
1492年9月6日
カナリア諸島に停泊したのち、ゴメラ島を離れ、ほぼ北緯28°線上を一路西へと航行。
1492年10月12日
グアナハニと先住民が呼んでいてバハマ諸島中の一島(現在のワットリング島)に到着した。
コロンブスはインドの一角に到着したと確信し、神への感謝の意を込めて、この島をサン・サルバドル島(「聖なる救済者」という意味)と命名した。先住民から黄金と香料の地について情報を聞き出しながら、キューバ島からイスパニオラ島(現在のハイチ島)へと航行した。しかしクリスマスの夜、サンタ・マリア号が座礁、難破したため、ナビダー居留区を設営、約40名を残留させて帰還。
1493年3月15日
カスティーリャのパロスに帰着した。
1493年9月25日
第2回航海では、17隻に1500名が乗船した。イスパニオラ島に到着したものの、前回作った植民地に行ってみると基地は先住民により破壊されていて、残した人間はすべて殺されていた。金鉱労働に徴発され始めた先住民の反乱も慢性化していく。
1495年
コロンブスは黄金や香料に代わる富として、反乱を起こした原住民を奴隷として本国に送り出すが、黄金ではないため、イサベル1世の怒りを買ってしまう。
1498年5月30日
第3回航海に出て、香料諸島への入口を探しているときに、島ではコロンブスの支配からの独立を掲げてフランシスコ・デ・ロルダンの反乱が起こる。
1500年8月
コロンブスは彼の統治能力を問うためにイスパニョーラ島にやってきた査察官フランシスコ・デ・ボバディージャにより鉄鎖をつけられて、カスティーリャ王国に送還される。
1502年5月9日
ニコラス・デ・オバンドがイスパニョーラ島の新総督に任命された。
コロンブスは最後の第4回航海に出発し、パナマ地峡地帯を徘徊する。
1504年
なんの発見もなくカスティーリャ王国に帰国。この航海の無理がたたって病む。イサベル1世死去。
1506年5月20日
アジアに到達したと信じたまま、カスティーリャ王国のバリャドリードで亡くなる。
■参考資料
出株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 コロンブス
独立行政法人 農畜産業振興機構
全米で相次ぐコロンブス像の破壊、先住民虐殺の歴史に矛先
『シリーズ・グローバルヒストリー2 解放しない人びと,解放されない人びと』
著/鈴木英明
『殷 - 中国史最古の王朝』著/落合 淳思 中公新書
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