なぜ私たちは生きているのか、なぜ私たちは死ぬのか 『残酷な進化論』

 なぜ私たちは生きているのか
 なぜ私たちは死ぬのか

 宗教や哲学の分野にありがちな話のようにも思えますが、『残酷な進化論』(著/更科功 NHK出版)の序章と終章には次のように書かれていました。ちなみに、著者は「日本の古生物学者」とウィキペディアでは紹介されています。宗教や哲学がベースではありません。


序章 なぜ私たちは生きているのか
「エネルギーを吸収しているあいだだけ一定の形をしていて、ときどき同じものを複製する」ことを「生きている」と表現するわけだ。
 周囲からエネルギーや物質を吸収し続けて一定の形をつくっている構造を「散逸構造」と言う。身近な例としては、台風の他に、ガスコンロの炎も散逸構造である。(中略)
 つまり「複製する散逸構造」を、ここでは仮に「生きている」と表現するのである。

 そうだとすると、生きる目的とか生きる意味とかを考えるのは、少し変な気がする。だって、生きる構造になった結果、生まれたものが生物なのだから、「生きる」より後ろにくるものはあっても、「生きる」より前にくるものはないのではないか。「生きる」ために大切なことはあっても、「生きる」より大切なことはないのではないか。つまり、生きるために生きているのが生物ではないだろうか。


 エネルギーの説明は、四国電力のサイトが秀逸なので、一部抜粋。
エネルギーとは、「仕事をする能力」のことです。ここでいう「仕事」とは、ものを動かしたり、熱や光、音を出したりすることをさしますが、そのために必要となるのが「エネルギー」なのです。私たちの身の回りには、電気やガス、ガソリンなどのエネルギーで「仕事をしてくれる」ものがたくさんあります。


 散逸構造については、以下の説明が非常にわかりやすいと思います。

ざっくりと解説すると、生命は高い化学エネルギーをもつ物質を内部に取り入れ、それを別のかたちの、低いエネルギー状態の物質に変換して放出している。入り口と出口のところでは流れは安定なものにみえても、個体のなかにはいたるところ熱勾配があり、全体としては決して平衡状態にはなっていない。つまり、平衡ではなく非平衡なのである。内部の部分系ごとに熱的なムラがあるからこそ、みかけ上熱力学法則に逆らっているような状態を維持することができるのだ。
こうした状態は「非平衡開放系」と呼ばれ、世界中でさまざまな研究が行なわれている。付け加えるならば、非平衡開放系は生命固有のメカニズムではなく、気象から海の潮流にいたるまで、さまざまなところでその動きを説明するための理論となっている。


たとえば、ガスコンロの炎はだいたい楕円形で、先が細くなった形をしている。しばらく見ていても、炎の形は変化しない。しかし、変化しないのは見かけだけで、分子レベルでは動的な状態にある。ここまでは、平衡状態のときと同じである。でも、この先が違う。

炎が一定の形をしていられるのは、エネルギー源としてガス(主成分はメタン)が供給され続けているからだ。ガスはコンロから出て、炎の中を通って(その間に酸素と結合して、二酸化炭素と水に変わって)、そして空気中へ出ていく。

 大辞泉では、化学エネルギーについて「化学結合によって物質内部に保有されているエネルギー。化学変化に際して、熱・光・電気などのエネルギーに変わる」と説明されています。

 ガスコンロは、「高い化学エネルギーをもつ」ガスを内部に取り入れて、「低いエネルギー状態」つまり炎という熱・光エネルギーに「変換して放出」しているという話なのでしょう。
 人間は、「高い化学エネルギーをもつ」食べ物を体内に取り入れて、「低いエネルギー状態」つまり熱・運動エネルギーに「変換して放出」しているということかと、文系人間は理解しました。

 生きるというのは
たまたま条件がそろって台風のように発生して
たまたま条件がそろって台風のように発達して
その条件が失われて台風のように消失する
ということのようですね。
台風のAI画像(画像/ぱくたそ


終章 なぜ私たちは死ぬのか

 昔の生物には寿命がなかった。それから進化していく間に、寿命のある生物が現れた。つまり、寿命というものは、進化によってつくられた可能性が高い。その結果、現在では寿命のない生物と寿命のある生物の両方がいるのだろう。

※寿命とは、あらかじめ決められたものとして考えられる命の長さであって、寿命がなくても環境の影響(猛暑、水不足、エネルギー不足など)で死ぬことはある

 およそ40億年前に、地球のどこかで有機物が組み合わさって、生物になりかけたころ……その有機物の塊を生物にしたのは、自然淘汰の力だ。自然淘汰が働かなければ、有機物の塊は、すぐにまた消えてしまっただろう。しかし自然淘汰が働き始めれば、有機物の塊をどんどん複雑な生物へと組み立てることができる。周りの環境に適応させて、なかなか消えない有機物の塊に、そしてついには生物にすることができるのだ。このように、有機物を生物にする力、さらに生物を環境に適応させて生き残らせることができる力、それはこの世に1つしかない。自然淘汰しかないのである。

※本書では、自然淘汰は、環境に適した形質(を持つ個体)、狭義には子どもをより多く残せる形質を増やす力があるとして、自然淘汰の働き方として、次の2つを挙げている
方向性選択:有利な突然変異が起きると、自然淘汰はその突然変異を増やすように作用し、生物の形質が一定の方向へ変化する
安定化選択:不利な突然変異が起きると、自然淘汰はその突然変異を除くように作用し、形質を変化させない(安定させる)ように働く

 死ななくては、自然淘汰が働かない。そして、自然淘汰が働かなければ、生物は生まれない。(中略)「死」が生物を生み出した以上、生物は「死」と縁を切ることはできないだろう。そういう意味では、進化とは残酷なものかもしれない。


 個体としてではなく生物全体として(まあ、「種」のような表現もあるでしょうが)、環境に合わせて生き抜いていくには、環境の変化に対応しなければなりません。対応できるように、多くの生物には寿命があり、オスとメスを掛け合わせることで(遺伝子を混ぜて)さまざなタイプ(多様性)を生み出して、どれか一つのタイプでも生き延びればよしということになったようですね。

 だったら、「死が怖い」という感情なんて欲しくないわけですよ。自分なんて、リチャード・ドーキンスがいうところの「遺伝子の乗り物」なら、「生きる喜び」「死ぬのも喜び」という感情だけで十分です。

 とはいえ、これも自然淘汰なのかもしれませんね。「死が怖い」という感情を抱く生き物が、環境に適応して、今まで残ったという考え方もできそうです。
 そういう意味でも、残酷ですね。

 ちなみに著者が「学びの意味、教養の価値はどこにあるのか?」というインタビュー記事の中で、ある人が語った「人が幸せになる条件」を4つ挙げていました。
 1 チャレンジすることがある
 2 お金や名誉を人生の最終目標にしない
 3 人と比べない
 4 「まあ、いっか」と言える
 生きることも死ぬことも、「まあ、いっか」と言えるようにしておくことが、私たちにとって幸せなのかもしれませんね。


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 『残酷な進化論』の著者である更科功博士は、『理系の文章術』(講談社)という本も出しています。まだ読んでいませんが(汗)、アマゾンで榎戸 誠さんのブックレビューがあまりにも素晴らしいので、一部抜粋。太字は『クラナリ』編集人によるものです。

●ルール1=読み手誰かを考える。
●ルール2=読み手の目的を考える。
●ルール3=読み手の立場になって考える。
●ルール4=文は短くする。
●ルール5=1つの文で1つの主張をする。
●ルール6=主語が明記しにくいときは、受動態を使う。
●ルール7=1つのパラグラフでは、1つのトピックだけを述べる。
●ルール8=キーセンテンスはパラブラフの最初に置く。

 あくまでも推測ですが、ベストセラー生物学者が教える「わかりやすい文章」を書くために必要なこと というインタビューと似ている内容ではないかと。
 以下、インタビューを抜粋。太字は『クラナリ』編集人によるものです。

 往々にして「ていねいな説明」はつまらないんです。だから、その「ていねいで、つまらない部分」を、間違いではないギリギリのところまですっ飛ばす。ここには、すごく勇気がいるんです。

 本についても同じことが言えます。正しいけれどわかりにくい文章を書くのは簡単です。わかりやすいけれど間違った文章を書くことも簡単です。正しさを失わない範囲でぎりぎりまでわかりやすい文章は、崖っぷちに立つようなもので勇気がいります。

 「ルール1=読み手誰かを考える」と関連していますよね。書き手はいろいろと伝えたいことがあっても、読み手はすべてを受け止められません。その場合は、読み手に合わせて、文章を書くことが大切です。
 これはすべてのコミュニケーションに当てはまる、普遍的なことだと思います。


 注意すべきポイントは2つあります。1つ目な自然な順序に並べるということですね。例えば、時間の経過に沿って並べるとか、一般的な話題から初めて個別な話題で終わるとか、読者が知っていそうなことから述べて知らなそうなことへ発展させていくとか。

 これはあたりまえのことですが、意外と難しいのです。書き手はつい自分を中心に考えて、文章を書いてしまいます。自分に身近なことから始めてしまったり、自分がよく知っていることは説明しなかったりしがちです。でも、読者の立場になって書かなくては、わかりやすい文章にはなりません。

 「ルール3=読み手の立場になって考える」と関連しています。そしてこれもコミュニケーションの基本。


 2つ目は、重要なことは繰り返すことです。人の記憶はかなりいい加減です。見たり聞いたりしたことで、記憶されるのはその一部にすぎませんし、これは文章を読むときも基本的には同じですね。いくら論理がしっかりした文章でも、読者が前に読んだことを忘れてしまえば、内容を伝えることはできません。

 とはいえ、同じ話を繰り返すと読者は飽きてしまうんですよ。そのため、2回目は少し形をかえます。たとえや例を使いながら重要なトピックの内容を繰り返していきます。難しいことをわかりやすく説明するために、たとえや例を使う人は多いし、よく言われる文章テクニックでもありますよね。

 もちろん、たとえや例は、難しい事柄を理解しやすくするためにも役に立ちます。でも、理解しても忘れてしまえば、その先の文章をすらすら読み進めることはできません。「すらすら読み進める」というのは、「前に戻って読み直さなくてよい」ということです。前に戻らずに読んでいくためには、理解するだけでなく、記憶することが必要です。そのために、たとえや例を使うのは、よい方法だと思います。

 一般論として、話を繰り返すのはよくないとされています。「またその話……」と相手をうんざりさせるからです。
 ただ、バリエーションを変えながら繰り返すのであれば、相手も興味を持ってくれるかもしれませんね。「ルール3=読み手の立場になって考える」と、自分の主張だけをむやみに繰り返すことはなくなりそうです。


 それともう1つ、「何を書かないか」ということですね。著者は「何を書くか」を決めるのと同時に「何を書かないか」も決めなくてはいけません。読者に伝えたいことをすべて詰め込んだ文章は、かえってわかりにくくなり、何も伝わらない文章になってしまうと思います。


 「書きたいこと」は、「実際に書くこと」よりも多くないといけません。文章は無理やりひねり出して書くのではなく、書きたいことの中から、一部のトピックを選んで、それを組み立てて文章にする。書きたいものが少ないと文章に余裕がなくなり、自由にトピックを選んだり並べたりできませんし、書いた後で文章を変更するときにも苦労します。 

 「文章に余裕」がないだけでなく、そもそも、無理やりひねり出したと推測できる文章は、くそつまんないものなのです。「そんなもの、他人に読ませるな」と声を大にして言いたいと、常々思ってきました。

 大学前の喫茶店で最初の打ち合わせをした時に、田畑さんが持参してきたのが、エルンスト・H・ゴンブリッチの『若い読者のための世界史』という本でした。私は世界史にはそんなに詳しくないのですが、この本が、非常にとっつきやすくて、おもしろかった。 

 田畑さんという編集者のような態度は、ライティングを行う人間にしてみると、非常に親切です。
 「どんな本にしたいのか」 を言葉だけで言い合っても、全然かみ合ってないことが多いからです。なんとなく「そういうことか」という結論が出て打ち合わせを終えたとしても、実際に文章になったときに「えっ。違うじゃん」という事態に陥りがちです。

 書籍編集者の皆さんは、ぜひ田畑さんを見習ってください!

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