「学校に行けない」「仕事に行けない」は本人の意志だけでなく、効率主義で分業が進み過ぎた社会のあり方が関係しているんじゃないか問題 『僕らの社会主義』

 学校に行けない。
 仕事に行けない。

 こうした場合、「本人の気持ちの問題」「自己責任」とされがちです。しかし、クラナリはちょっと違和感を抱いていました。個人ではなく社会全体のシステムも関係しているのではないかと、思い始めていたのです。

 私たちの暮らしている社会では、多くが数値で評価されます。身長は何cmで体重は何kg、血糖値は何mg/dLだと“正常”。
 学校の偏差値も、職場での売り上げも数字。年収が高い人は勝ち組、低い人は負け組という価値観もあります。

 そして“いい・悪い”“正常・異常”の評価については、基本的には他人によるものです。自分がそれでいいのか、楽しいか、面白いかではなく、他人がどう思うのか。

 経済学者のケインズは、投資を「美人投票」にたとえました。自分が美しいと判断するのはどうでもよく、“みんな”が誰を美しいと思っているのかが経済活動では重視されるのです。

 不特定多数の“みんな”の目と、数字を絶えず気にしながら、学校で学び、職場で働く…

 こうした状況をゲーム感覚で楽しめるときもあるでしょうが、うまく順応できないと疲れるし、場合によっては精神的に追い詰められてしまいます。

 こうして学校に行けない、仕事に行けないという状況に陥るのかもしれません。

 また、今の子どもたちについては、中学生の頃から「将来像」を求められていて、「将来、何になりたい?」「だったら、何大学の何学部を志望する?」「今の過ごし方があなたの人生を決めるんだよ」というように急かされています。
 あれこれ迷う楽しさもなく、効率よくレールに乗せられているという印象も、個人的に抱いていました。

 そもそも、どうしてこんなことになったのかと歴史を振り返ると、やっぱり産業革命が関係しているのではないかなと。
 そして今の日本は、「自己責任だ」と本人を責めたり、意志の弱さのせいにしたりし過ぎではないかなと。

 「安く」「多く」「効率よく」を極めようとして分業が進んできたこれまでの社会。多くの人が経済活動ばかりを行って、政治は政治家だけ、芸術は芸術家だけと分けられていますが、産業革命の頃は違っていました。
 首尾一貫している必要はないし、そもそも、私たちは一人の人間の中に政治的な部分もあれば芸術的な部分もあって、右往左往しているわけです。
 そんな生きた例が、イギリスの産業革命の後に登場したジョン・ラスキンやウィリアム・モリスといった先人たちでした。

ジョン・ラスキン画像/Wikipedia

ウィリアム・モリス画像/Wikipedia

 今回は『僕らの社会主義』(著/國分 功一郎、 山崎 亮  筑摩書房)の内容をもとに、産業革命の後のイギリスの思想などをちょっと調べてみました。
 社会主義というと「えっ……」と引いちゃうというか、主義主張がうるさいというか、硬直的というか、そんなイメージを持ってしまうわけですが、産業革命後の社会主義はバラエティに富んでいたようです。この本の袖には、次の言葉がありました。
当時の社会運動家たちが思い描いたのは、有産階級以外の人々も美的に豊かな生活を送れる社会だ。そこにあったのはマルクス主義一辺倒になる前の「あったかもしれない社会主義」だ。「豊かな生活」とは何を意味していたのか。

  「『豊かな生活』とは何を意味していたのか」の答えが、本文には示されています。その一つが、日々の暮らしの中で、楽しみを自分の手で作り出すこと。

 上手に作れなくていいし、早くなくていいし、効率的でなくてもいい。だからお金持ちであるかどうかは関係ない。
 さらには能動的でなくていい。たまたま川原を歩いていたら、きれいな石が落ちていたから、拾って持って帰る。たまたまスーパーに行ったら、おいしそうな魚が安く売られていたので、買って帰る。そのぐらいの、いい加減さ(「ゆらぎ」「マイルド」「日和見」「つまみ食い」)でいい……

 こうしたことが書かれていました。
山崎 どんな境遇であれ、「楽しみを生み出す力」が平等であれば何かが生み出せるような気がします。現代の問題のひとつは、楽しみを自ら生み出す力を高められないことではないかと思います。
國分 それは家や学校で教わらないし、「そういうことがいいことだ」とも言われてない。
山崎 そうなんです。むしろ「楽しみはお金を払って購入するもの」だと教え込まれる。お金を払って誰かに楽しませてもらうことが自分の楽しさだと思い込まされるような情報ばかりが増えている気がします。


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 イギリスの産業革命は、毛織物や綿織物といった繊維産業から始まりました。さまざまな発明により、生産形態は工場制手工業(マニュファクチュア)から工場制機械工業へと変化していきました。
 ここに1765年のワットによる蒸気機関の改良、さらに19世紀中盤の鉄道や蒸気船などの交通革命が加わり、さまざまな産業に産業革命は展開していきました。

 産業革命を支えた資本家は、富裕な市民階級でブルジョアジーと呼ばれました。彼らの出自は、地主、独立自営農民、手工業者、商人などさまざまでした。
 イギリスでは1642~1649年のピューリタン革命(清教徒革命)、1688~1689年の名誉革命で絶対王政が終焉し、立憲君主制へと移行しました。

 急激な産業化と都市化が進んだ産業革命は、社会にも影響を与えました。
産業革命の頃のイギリス(画像/Wellcome Images


 機械によって効率的に生産ができるようになると、労働者は賃金が下がったり職を失ったり、また、職人の技能も低く扱われたりしました。工場主などの資本家は、労働者や技術者を見下すようになります。
当時の階層社会に対する風刺画(画像/Wikipedia


 そんなイギリスでは、1811年頃から北部・中部の繊維工業地帯で労働者が機械を打ち壊す運動が起こりました。ラッダイト運動です。
 資本家への抗議として始まったラッダイト運動は、軍事的な力で鎮圧されました。

 機械によって、これまでの生業と暮らしが壊されていった労働者たち。
 1829年に、イギリスの哲学者トマス・カーライル(1795- 1881年)は、『エディバラ・レヴュー』に「時代の兆候」という論文を発表します。
トマス・カーライル(画像/Wikipedia

 この論文で、カーライルは機械化の弊害に言及しました。

哲学者トーマス・カーライルは、「機械の時代」が意味することに取り組み、産業が社会を豊かにし、人々は「食事、衣類、住居を得て、あらゆる外的な側面において順応している」と述べた。しかし「貧者と富者の乖離」の増大に疑問を投げかけ、「思考や感情の様式」の「超大な変化」を説いた。「人間は手だけでなく、頭も心までも機械的になった」。市民生活は魂を失ってしまうのだろうか。いずれにせよ、「政府は機械的ではないものも多く内包しているので、機械的には扱われえない」のだという。

 カーライルは、イギリスの哲学者・経済思想家のジョン・スチュアート・ミル(1806- 1873年)と交流を持っている時期がありました。
 1830年代に2人は出会い、文通相手になりました。ミルはカーライルに『フランス革命』の執筆を勧め、1835年3月、完成した第1巻の原稿がミルの手もとにありました。しかし、ミルの家政婦がカーライルの原稿を大事なものと思わず、火種にしてしまいます。これをミルは嘆き悲しみました。
 2人は考え方が離れていき、1840年代に交流が途絶えてしまいました。
ジョン・スチュアート・ミル(画像/Wikipedia


 産業革命は、芸術の分野でも影響を及ぼします。

 イギリスのヴィクトリア朝(1837 - 1901年)では産業革命で経済が発展し、「世界の工場」の地位にありました。
 また、上流階級(貴族)・中流階級(資本家、投資家、銀行家、医師、エンジニア、弁護士、公務員など)・労働者階級の3つの階級で、ヴィクトリア朝では中産階級が豊かになり、美術の人気が高まります。

 優秀な芸術家を育成し、芸術家の地位を向上させることを目的に、1768年に設立されたロイヤル・アカデミー(王立芸術院)の初代会長は、ジョシュア・レイノルズ(1723 - 1792年)でした。
ジョシュア・レイノルズの自画像(画像/Wikipedia

レイノルズの作品「キャロライン・ハワード嬢の肖像」(画像/Wikipedia



 レイノルズが高く評価していたのが、イタリア・ルネサンス最盛期の画家ラファエロ・サンティ(1483 - 1520年)でした。ラファエロは、英語ではラファエルと発音します。
ラファエロ・サンティの自画像(画像/Wikipedia



 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828 - 1882年)、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ウィリアム・ホルマン・ハントといった若い画家たちは、構図や色彩などでラファエロを模範とすることに反発しました。そして1848年に、ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)をロンドンで結成します。ラファエロ以前の初期ルネサンスを美の共通理念として、自然主義、道徳主義、劇的表現を掲げていました。1853年にラファエル前派は解散します。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの作品「ベアタ・ベアトリクス」画像/Wikipedia


ジョン・エヴァレット・ミレイの作品「オフィーリア」画像/Wikipedia

ウィリアム・ホルマン・ハントの作品「雇われ羊飼い」画像/Wikipedia




 ラファエル前派を支援したのが、批評家のジョン・ラスキン(1819 - 1900年)です。
ジョン・ラスキン画像/Wikipedia


 ラスキンは、1819年にロンドンで生まれました。父親は裕福なシェリー酒商人で、母親は敬虔なプロテスタントです。教育熱心な両親の願いは、 大切な一人息子のラスキンが聖職者になることでした。
 少年期のラスキンは地質学や芸術に興味を抱き、12歳の頃から絵画教室にも通い始めます。そうした中で、風景画家ウィリアム・ターナーの作品に出合います。
ウィリアム・ターナーの作品「海の漁師たち」画像/Wikipedia


 オックスフォード大学に入学したラスキンは、1840年に憧れのターナーに会って芸術への興味が高まり、1843年には『近代画家論』第1巻を刊行しました。ターナーを擁護する目的で書かれたこの本で、ラスキンは美術評論家として名声を上げ、ラファエル前派の活動を熱心に擁護しました。

 ラスキンは、父親の収入と遺産のおかげで、美術評論や社会活動に没頭しました。1848年に10歳年下のエフィー・グレイ(1828 - 1897年)と結婚したものの、彼女は窮屈な結婚生活に嫌気がさし、ラスキンが金銭的に援助していたラファエル前派の画家ミレイと恋に落ち、1854年に離婚に至ります。
『エフィー・グレイ――ラスキン、ミレイと生きた情熱の日々』(著/スザンヌ・フェイジェンス・クーパー  岩波書店)

 1850年頃から、ラスキンはカーライルと交流を持つようになりました。

カーライルは、ラスキンが芸術評論に携わっていた1840年代および50年代には、すでに、「衣装哲学1833」、「フランス革命史1837」、「英雄および英雄崇拝1841」「過去と現在1843」、「現代論パンフレット1850」などの主要著作を出版し終えていた。ラスキンはこれらのものを読んだ。1850年ごろから両者は交流を持つようになったが、カーライルは芸術には関心がなく、両者の思想的親交は、もっぱらラスキンが執筆活動の最初の10年を費やして社会的な問題意識に目覚め、カーライルの烈しい社会批判に同調することによって得られたものであった。

 芸術評論家としての名声を勝ち得ていたラスキンは、社会批判に転向した後、四面楚歌の痛罵に晒されることとなったが、カーライルはラスキンの「輝かしい能力-快活さ、高く純粋な道徳性、天上界のごとき輝き」と、「不正、虚偽、卑劣に対する神々しいまでの義憤」を称賛し、ただ一人彼に激励の声を送った。一方、ラスキンはカーライルを世界で唯一の理解ある支持者と見なし、絶対の忠誠と信頼を寄せた。両者は相互の愛着と嘆賞によって結ばれたのである。

 こうして、社会構造や建築もラスキンは研究しました。

 当時粗野で不完全とされていた中世のゴシック建築物を再評価するために1851年には『ヴェネツィアの石: 建築・装飾とゴシック精神』、1853年には『ゴシックの本質』を刊行しました。




ラスキンいわく、「われわれは分業という文明の偉大なる発明について大いに研究し、大いにそれを究めてきた。ただし、この命名はまちがっている。じつは分割されているのは労働ではない。人間である」。そして建築装飾の体系中、本書で推奨される「革命的装飾」とは、定義からして「施工にあたる者が下位に置かれることをまったく認めないもの」なのだ。
死を予感したマルセル・プルーストをヴェネツィアへと旅立たせたばかりか、モリスにギルド的アソシエーションを起こさせ、ガンジーに農園を開設させたラスキンの思索は、まさにここから始まったのである。

 この本では、中世の職人と19世紀の工場労働者の労働環境が比較されていて、「仕事の分業化により労働者の仕事は単純労働化され、自分一人では釘の1本も作れなくなった」と中世の熟練した職人の手仕事を高く評価しています。

 1854年にラスキンはロンドンの労働者大学で素描を教え始めました。

 1860年から雑誌『コーンヒル・マガジン』で「この最後の者にも」の連載を始めました。ラスキンが41歳のときのことです。

『コーンヒル・マガジン』

 この連載では、リカードやミル、ジョヴォンズの理論を批判しました。「この最後の者にも」はあまりにも不評で、ラスキンは非難を浴びます。

 ラスキンはオクタヴィア・ヒル(1838 - 1912年)の絵の師匠であり、支援者でもありました。1864 年に、ラスキンはヒルに貧困者のための住居管理を彼女に提案し、ヒルは「委員会を作らなくてもいいのなら」という条件でこの提案を受け入れています。こうした住宅運動はオープン・スペース運動(公園や広場などの公共空間を活用して住民の生活を豊かにする運動)に発展し、ナショナル・トラスト(文化財の保護を目的として設立されたボランティア団体)の設立につながります。

 そして1870年からオックスフォード大学初代スレイド美術教授として講義を行い、また同大学内に素描学校を開設しました。
 1877年頃、アメリカの画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834 - 1903年)の作品「黒と金色のノクターン-落下する花火」を酷評したラスキンは、名誉毀損の訴訟を起こされます。
ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの作品「黒と金色のノクターン-落下する花火」画像/Wikipedia


 ラスキンは、1878年頃から精神を病み、1900年に80歳で、インフルエンザで永眠しました。


 そんなラスキンの影響を受けたとされるのが、ウィリアム・モリス(1834 - 1896年)です。
ウィリアム・モリス画像/Wikipedia



 モリスはロンドンの北東に位置するウォルサムストウで生まれ、父親はロンドン・シティの証券仲買人でした。株で大儲けしたモリス一家は、1840年に大邸宅のウッドフォード・ホールに転居しました。広大で豊かな庭、美しい森など、恵まれた幼少期を過ごします。モリスが13歳のときに父親が亡くなり、母親と小さい家、ウォーターハウスに引っ越ししても、生活には困りませんでした。
 1853年にオックスフォード大学に入学すると、メッキ職人の息子エドワード・バーン・ジョーンズ(1833 - 1898年)と出会います。親友になった2人は、大学卒業後にロンドンで共同生活を始め、画家を目指しました。
 1856年に、2人は第2期ラファエル前派のロセッティに弟子入りし、ラスキンと顔を合わせることになります。
モリスの1858年の作品La Belle Iseult画像/Wikipedia



 1859年にモリスは、ロセッティの絵のモデルだったジェーンと結婚しました。1860年には新居となるレッドハウスを建設し、モリス・マーシャル・フォークナー商会を興します。画家や建築家、数学者など7名が集まり、壁面装飾(壁紙、刺繍、染織)、ステンドグラス、金工、家具など室内装飾のデザインから製作までを一貫して請け負いました。ただ、1862年頃から、父親から相続した株の価格が下落してモリスの収入が激減し、商会の経営が厳しくなりました。
 1865年、モリスはレッドハウスを売却し、ロンドンの中心部にあるブルームスベリーに転居しました。
 この頃に、ロセッティとモリスの妻のジェーンは恋愛関係になっていました。

 モリスが36歳だった1868年に、長編物語詩『地上の楽園』を刊行し、名声を得ます。


 1875年にモリス・マーシャル・フォークナー商会を解散し、モリス単独でモリス商会を設立し、テキスタイルや壁紙を中心とした商売に転換しました。
スネークヘッドプリントテキスタイル画像/Wikipedia



 1877年に、古建築保護協会を設立し、古い建物を修復するのではなく、保護するように訴えました。この考え方は、ナショナル・トラストに受け継がれます。

 モリス商会は1881年にはロンドン南西部のマートン・アビーに引っ越し、染色工場を始め、さらに織機も設置して織物の製造も行うようになります。

 1883年、48歳のときにモリスは民主連盟(マルクス主義団体で中心的指導者はヘンリー・ハインドマン)に加入し、社会主義者だと宣言します。
 産業革命で大量生産された粗悪な商品が作り出されている状況を、モリスは批判します。そして、手工芸を復興し、生活と芸術を統一することを主張しました。
 すでに芸術家・起業家として有名だったモリスの宣言は、上流階級や富裕層から反感を買いました。しかしモリスは、機械化と資本主義を否定し、芸術と人間的労働の再生を目指して、社会変革のために政治活動に積極的に参加しました。

 そして1884年に、ハインドマンが専横的だった民主連盟をモリスは抜けて、社会主義同盟を創設します。1890年には社会主義同盟を抜けて、ハマースミス社会主義協会を創設します。社会主義運動については、分裂と対立に苦しみました。

 1880年代後半のイギリスでは、失業問題が深刻になっていました。雇用を求めるデモが組織され、社会主義運動が活発になっていくと同時に、警察のよる弾圧も強化され、逮捕者も多く出ました。

 一方、モリスやラスキンを信奉する画家や彫刻家、建築家、デザイナーのグループが、1884年にアート・ワーカーズ・ギルドを組織し、これが母体となって、1887年にはアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会が創設されました。
 1888年にはアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会による第1回の展覧会が開催され、モリスは印刷への関心が高まり、印刷工房のケルムスコット・プレスをエメリー・ウォーカーと設立しました。
 アーツ・アンド・クラフツ展協会に始まる、手仕事の復興を目指したアーツ・アンド・クラフツ運動でしたが、徹底的に機械生産を嫌い手工芸にこだわったために、モリス商会の製品は一部の金持ちしか買えない高価なものとなりました。この矛盾に悩んだモリスは社会主義運動にのめり込んでいきます。

壁紙 - ヒヤシンス、パターン(1917年、画像/Wikipedia


Design for Tulip and Willow indigo-discharge wood-block printed fabric(1917年、画像/Wikipedia


 モリスは2年がかりで『ジェフリー・チョーサー作品集』を完成させ、62歳の秋、糖尿病と腎臓病が悪化し、亡くなりました。

『ジェフリー・チョーサー作品集』(画像/専修大学図書館

モリスはアナーキストの自由な気質、「国家社会主義」に対する嫌悪を理解した。人々があらゆる方面に自由に能力を伸ばすことがモリスの理想だった。だがそれには無政府状態ではなく、社会が必要だ。社会の構成員のさまざまな興味を発展させるためにも、最低のルールが必要だ――モリスはこう考え、分裂のさなかに執筆した『ユートピアだより』に結実させた。そこでは、果てしなき討論のあとに眠った社会主義者が、美しい未来のロンドンで目を覚まし、苦労を知らない美しい人々とテムズ川を旅し、社会のシステムを垣間見る。この物語りは、正統派社会主義者が毛嫌いしていたスタイル―未来社会の空想―であえて執筆された。自分の未来像は「人には奇妙かもしれない」が、一人ひとりが自分なりの夢を持ちそれを渇望することが変革の鍵だとモリスは主張した(『未来の社会』1887年)。
 


■主な参考資料
ラスキンの藝術経済論

創部100周年記念式典に寄せて - 都留重人先生~塩野谷祐一先生~松本正義君に流れる思想的背景

ウィリアム・モリスと19世紀イギリス美術 [2](2021年7月7日)

北陸経済研究会 AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」
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