結局のところ、「節分」とは何なのだろうか
日本では、中国から伝わってきた太陰太陽暦が、江戸時代まで使われていました。
日本の旧暦は、太陰太陽暦の天保暦です。
太陰太陽暦にはたくさんの暦法(計算の規則)がありますが、ベースは月の満ち欠けです。新月になる日(月が見えなくなる日)を月の始まりと考えました。新月から新月までの間は平均29.5日で、12カ月間だと約354日となります。
1年が約354日の暦だと、「かつて1月は冬だったのに、数年後には1年が春になる」というように、だんだんと暦が季節とずれていきます。暦と季節のずれが1カ月程度になると、閏(うるう)月を入れて修正しました。
例えば、3月の次に閏月が入るとその月は「閏3月」と呼ばれ、その年は13ヶ月間あるということになります。閏月は平均すると19年に7回ぐらいの割合で入ります。
中国の観光客が日本にたくさんやって来たり、大量の爆竹と花火を鳴らしたりすることから、テレビのニュースで春節(しゅんせつ)が報道されています。春節は、中国における太陰太陽暦の正月です。
中国では清の時代に、時憲暦という暦が使われ、清の滅亡後、1912年から太陽暦が採用されました。ただ、農暦(农历)という呼び名で時憲暦が使われているとのこと。
一口に「太陰太陽暦」といっても、計算のやり方や、各国で緯度が違うことから新月になるタイミングも異なります。
また、二十四節気も、中国から日本へと入ってきました。中国の前漢の時代にほぼ完成した二十四節気については、日の出から日の入りまでが最も短い冬至を起点として、1年間の太陽の動きを元に、次のように決められています。
二十四節気の決め方
1年(1太陽年)を冬至と夏至で二分
→春分と秋分に二分=1年を四等分(二至二分)
→四等分の真ん中に立春・立夏・立秋・立冬を定める=八節
→八節を三等分=二十四節気
憶測ですが、農業や漁業などに携わる人は主に二十四節気を、仕事が季節とあまり関係ない人は太陰太陽暦を重視していたのではないかと。
二十四節気
立春(りっしゅん)
雨水(うすい)
啓蟄(けいちつ)
春分(しゅんぶん)
清明(せいめい)
穀雨(こくう)
立夏(りっか)
小満(しょうまん)
芒種(ぼうしゅ)
夏至(げし)
小暑(しょうしょ)
大暑(たいしょ)
立秋(りっしゅう)
処暑(しょしょ)
白露(はくろ)
秋分(しゅうぶん)
寒露(かんろ)
霜降(そうこう)
立冬(りっとう)
小雪(しょうせつ)
大雪(たいせつ)
冬至(とうじ)
小寒(しょうかん)
大寒(だいかん)
上記からわかるように、節分は二十四節気ではありません。雑節の一つで、かつては立春・立夏・立秋・立冬の前日でしたが、現在は立春の前日を指しています。
現在、節分には豆まきを行いますが、この行事の起源は追儺(ついな・おにやらい)という儀式とのこと。中国から大儺(たいな)という風習が日本に伝わり、飛鳥時代の文武天皇の頃に、疫病をもたらす鬼(儺)を追い払うために行われたというのが、歴史上初めて登場する「節分の豆まき」です(節分でもないし、豆もまきませんが、便宜的に)。
ただし、追儺が行われたのは、1年の終わりでした。つまり二十四節気ではなく、当時の暦が関係しているのです。ちなみに、飛鳥時代の604年に日本最初の暦が作られたと伝えられています。
追儺は、平安時代に宮廷の年中行事になりました。
実際に豆まきが行われるようになったのは、宇多天皇(867-931年)の時代とされています。「鬼の目(魔目)に豆を投げつけて退治した故事に由来する」とのことですが、おやじギャグでしょうか。
「鬼は外、福は内」と言うようになったのは、室町時代のようで、1447年に成立した『臥雲日件録』に「唱鬼外福内」と記されているとのこと。
当時は旧暦を使用していたため、新年を迎えないうちに立春がくることもありました。正月行事と節分行事が混同した原因には、暦の問題も少なからず関係しているようです。
ややこしい表現になりますが、「節分の豆まき」が、二十四節気(というか雑節)の節分に行われるようになったのは、江戸時代とのこと。歌舞伎役者が豆まきを行う風習(?)も江戸時代からのようです。
節分に恵方巻を食べる風習の始まりについては、諸説があり過ぎてよくわかりませんが、1932(昭和7)年に、大阪鮓商組合が「恵方を向いて巻寿司を丸かぶりする」というチラシを配布したというのが有力のように思えます。
初詣も、明治に鉄道会社が作り出した行事ですし。
恵方とは、歳徳神(としとくじん、とくどさん、別名「年神、歳神(としがみ)」)がいるとされる方向です。
歳徳神は、牛頭天王(ごずてんのう)の后の頗梨采女(はりさいじょ・はりさいにょ)です。以下の引用の「沙渇羅竜王の娘」が頗梨采女、つまり歳徳神です。
| 牛頭天王(写真/津島市文化財・文化遺産) |
牛頭天王
京都祇園社(八坂神社)の祭神で,本来は祇園精舎の守護神とされるが,日本では行疫神として流布しており,各種の教説がある。たとえば《備後国風土記》では,牛頭天王を武塔神とも呼び素戔嗚(すさのお)尊と同一視し,有名な蘇民将来(そみんしようらい)の説話を伝え,《伊呂波字類抄》では,天竺の北方九相国の王で,沙渇羅竜王の娘と結婚して八王子を生み,8万4654の眷属神をもつとする。また陰陽道の教典の一つである《簠簋(ほき)内伝》では天刑(てんけい)星,吉祥天の王舎城大王,商貴帝,牛頭天王を同一としている。このほか薬宝賢明王とも呼び,本地を薬師如来とする説もあり,安居院(あぐい)の《神道集》では各種の教説を述べ,その根拠を各種偽経に求めている。牛頭天王の形相は,《簠簋内伝》では頂頭に黄牛面を戴き両角を持つ忿怒相とされているが,京都妙法院蔵1350年(正平5・観応1)の神像絵巻では,白牛にまたがり,火焰の光背,3矢,宝珠,宝棒などを持ち三面十二臂の忿怒相で描かれている。
インドの祇園精舎の守護神。祇園天王,武塔天神,天王ともいう。スサノオノミコトの本地仏と説かれ,除疫神として,京都八坂神社,愛知津島神社に祀られる。
祇園精舎は、紀元前6世紀の古代インドのコーサラ国にあった寺院で、スダッタ(須達)というお金持ちが、釈迦のためにジェータ(祇陀)という皇太子の所有する林を買い取って建設したのだそうです。
古代インドの舎衛国にあった僧院。サンスクリット語 Jetavane 'nāthapiṇḍadasya ārāmaが漢訳で祇樹給孤独園 (ぎじゅぎっこどくおん) とされ,それを省略した形が祇園精舎。釈尊在世中に,スダッタという資産家が釈尊に帰依し,祇陀太子のもっていた林を買取り,そこに釈尊および弟子たちのために僧院を建てたといわれ,釈尊はここにとどまって,多くの人々を教化したといわれる。仏教で修行僧が大きな僧院を建てて住んだ最初の事例である。玄奘が訪れた7世紀にはすでに荒廃していたという。
牛頭天王については、西田長男の『神社の歴史的研究』に以下の記述があるとのこと。
この牛頭天王信仰は、我が国において全然新たに形成されたものであるかというに、もとより、そうではなかろう。もとインドに発し、シナに流入して彼の地固有の宗教たる道教と習合し、さらに我が国に東漸しては、また我が国固有の宗教たる神道と習合し、……(『翻訳名義集』に「牛頭栴檀」の語が見え、栴檀を産する山が牛の頭に似ており牛頭栴檀といったとあるところから)このように『牛頭』の語が梵語の翻訳であることからしても、牛頭天王信仰の源流がインドにあったことは先ずは疑問を納れなかろうと思う。ただ、インドに発し、シナに入り、我が国に伝えられるに至って、さまざまの複雑な習合を遂げ、その末、ついに、信景の言葉を藉りれば、『混雑而習合互無知其本矣』といった有様になったのであろうと思う。尤も、この小論では、かかるインド・シナにおける牛頭天王信仰の経緯に関しては述ぶべき限りではない。また、わたしの如きその任ではない。
古代インドのコーサラ国は、アーリア人が建国しました。
アーリア人は紀元前3000~紀元前1500年に、草原と森林の混在する中央アジア(カスピ海・黒海の周辺、ウラル山脈南部ユーラシア・ステップ西部)に居住していた遊牧民です。ウシやヤギなどの家畜を連れて、水と草を求めて移動生活を行っていたと考えられます。移動した先は、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス川流域)などさまざまでした。
アフガニスタンを経て紀元前1500年前後にインド亜大陸に進出したアーリア人のグループは、インド大陸に先住していたドラヴィダ人のインダス文明が消滅した200年~400年後、紀元前1500年頃にガンジス川流域に定住し始めました。
また、アーリア人であるザラスシュトラ・スピターマ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)が開祖のゾロアスター教は、紀元前6〜7世紀に古代ペルシア(現在のイラン北東部)で成立したとされています。ゾロアスター教では、東西南北に意味を持たせたとされています。
もしも古い時代のアーリア人に方位の概念があり、古代インドの国々を作った人々にも受け継がれていたとしたら、恵方のルーツは中央アジアになるのかもしれませんし、そうではないのかもしれません。
■参考資料
本の万華鏡 日本の暦
節分「丸かぶり寿司」の風習
月と月暦
月刊うちゅう 旧暦の2033年問題
「旧暦」ってなに?
古代中国における地の測り方
国立天文台 暦Wiki
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