量子論を超文系人間が歴史からアプローチしてみた

 エセスピリチュアルな人々は、平気で「量子力学」などの用語を使います。彼らが本当に量子力学を理解しているかどうかを確かめたくて、量子力学が含まれる量子論(ミクロの世界の物理法則)に関する本などを読んだのですが、すべて挫折。
 そこで、超文系は文系らしく、歴史からアプローチしてみました。

 量子について、文部科学省のページで次のように説明されています。
 量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表選手です。光を粒子としてみたときの光子ニュートリノクォークミュオンなどといった素粒子も量子に含まれます。
 量子の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)あるいはそれよりも小さな世界です。このような極めて小さな世界では、私たちの身の回りにある物理法則(ニュートン力学や電磁気学)は通用せず、「量子力学」というとても不思議な法則に従っています。

 また近年は、そんな不思議な量子特有の性質を、コンピュータやセンサー、通信技術等に活用する「量子技術」も急速に発展しています。

 
 量子論が生まれたのは「光とは何か」を探る研究で、歴史をたどるとガラスも関係しているような印象を抱きました。

ガラスの定義 
化学的な定義:非晶質物質の中でガラス転移を示す物質を ガラスと呼ぶ(ガラス状態)。 
一般的な定義:ケイ酸塩ガラスを指す。 
ガラス転移とは、温度を変えたときに、アモルファス固体相が示す、比熱や熱膨張係数のような熱力学的微分量が結晶的な値から液体的な値へと多少急激に変化する現象である。 

 


※「非晶質物」とは、結晶していない(規則的な構造を持たない)固体で、アモルファスとも



 世界最古のガラスとされているのは紀元前2350~前2100年のもので、メソポタミアのテル・ブラク遺跡から発見されました。ガラスの歴史は思いのほか古く、古代メソポタミア・エジプト文明から始まっていました。
サルゴン2世(紀元前720~前710年)のガラス(出典:大英博物館



 なお、世界最古の光学レンズ(光を集束したり発散させたりする部品)は、ガラスではなく水晶ですが、紀元前7世紀の古代アッシリアの墓からは、レンズ(ニムルドのレンズ)が1853年に発見されました。細い楔形文字を彫るための拡大鏡、太陽熱を集める点火用など、使い方に関しては多くの説が唱えられています。
Geni - Photo by user:geni, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13302965による



 実用品だったガラスに対し、光については古代文明の宗教で神聖視されてきました。

光,輝き,まばゆさ,純粋さ,清らかさは神性の特質である41。


 古代ギリシャの学者たちは、光に大きな関心を寄せていました。
 アリストテレス(起源前384–前322年)、色は光と闇が混ざり合うことで生まれると考え、「白(純粋な光)と黒(純粋な闇)が両極端であり、その中間に赤や青といった色が位置する」という色彩論を展開しました。

 紀元前3世紀の古代ギリシャの数学者であるエウクレイデス(ユークリッド、紀元前330–前275年)は、『光学』や『反射視学』などの著書を残しました。彼は「目は光線(視線)を発し、それが対象物に触れることで物が見える」という視線外発説を提唱しました。
 また、光が直進することや、鏡による反射の法則(入射角と反射角は等しい)を幾何学的に証明しました。

エウクレイデス(ユークリッド、出典:ブリタニカ百科事典



 イスラム圏のイラクの都市バスラ出身の科学者であるイブン・アル=ハイサム(965-1040年頃)は、レンズや鏡を使った反射や屈折の実験・観察を扱った『視覚論』『光学の書』を残し、、「光学の父」と呼ばれています。

 光の屈折はユークリッドやイブン・アル=ハイサムなど、さまざまな科学者が研究してきました。しかし、光が水面に差し込むときの入射角と差し込んだ後の屈折角がどれだけになるのか、正確に計算する方法は見つかりませんでした。
 この光の屈折角を求める方法を発見したのが、オランダの天文学者・数学者ヴィレブロルト・スネル(1580–1626年)です。

スネルの法則とは、光線 が平面(屈折率の異なる媒質の境界)に入射した場合の入射角と出射角(屈折角)、さらに媒質の屈折率 の関係を表す法則のこと。屈折 の法則とも言う。




 「我思う、故に我あり」で有名なフランスの哲学者・数学者ルネ・デカルト(1596-1650年)は、1637年に発行した著書『方法序説』の中の「屈折光学」で、光の屈折の法則(「正弦の法則」)を独自に定式化し、自然現象を機械論的に説明しました。




 ガラスを使用した眼鏡は、13世紀後半にイタリアで発明されたとされています。
 望遠鏡は、1608年にオランダの眼鏡職人であるハンス・リッペルスハイが発明したのが最初だとされています。2枚のレンズを筒に組み合わせることで「遠くのものが近くに見える」仕組みを発見しました。

 また、錬金術が盛んだった中世(5〜15世紀)には、実験道具がガラスや陶器、金属で作られていました。

 錬金術に傾倒していたことでも知られるイギリスの物理学者のアイザック・ニュートン(1643-1727年)は、プリズム実験を行いました。
 太陽光を三角プリズム(三稜鏡、三角柱のガラス)に通すと、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫といった色の帯(スペクトル)が現れる現象を観察しました。この結果から「白色光は、さまざまな色の光が混ざり合ってできている」とニュートンは結論づけます。

三角プリズム(画像出典:Amazon

 ニュートンは、ほかにもガラスを使った実験を行っています。
平面ガラス板の上に曲率半径の 単色光 大きな平凸レンズをのせ、真上か
ら単色光を入射させ上ると、同心円状の干渉縞が生じる。この縞はニュートン・リングと呼ばれる。
これは、 ガラス板と凸レンズの下面の間にわずかな隙間が生じ、レンズの下面で反射した光とガラス表面で反射した光とが干渉するためである。

 ニュートンは光を粒子(コーパスキュル)の集まりとして捉え、光の反射・屈折・干渉などを体系的にまとめた著書『Opticks(光学)』を発表しました。

 ニュートンの力学に基づいて、フランスの数学者であるピエール=シモン・ラプラス(1749-1827年)は、宇宙のすべての物質の現在の状態と働く力を完全に把握できる知性があれば、物理法則に従って未来や過去をすべて計算できると主張しました。この考えは「ラプラスの悪魔」と呼ばれ、「すべての出来事は原因と結果の連鎖によって必然的に決まる」という決定論の象徴とされました。
 「ラプラスの悪魔」は、後に量子論で否定されました。


 話を光に戻すと、 「光の粒子説」を提唱したニュートンと同じ時代には、「光は波である」という波動説も存在していました。
 イタリアの物理学者であるフランチェスコ・マリア・グリマルディ(1618-1663年)は、1665年に光の回折現象、つまり光が波の動きと似ていることを発見しました。

 イタリアの物理学者フランチェスコ・マリア・グリマルディは細い棒に光を当てると棒の影ができる部分に光が回り込む現象を発見し光の研究を重ねました。その研究成果はグリマルディの死後の1665 年に論文「光、色、虹に関する物理・数学的論考」として発表されました。


 オランダの物理学者のクリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695年)は、光の波動説をし主張し、ホイヘンスの原理を発表しました。
彼の中心的な理論である「ホイヘンスの原理(Huygens’ Principle)」は、次のように説明されます。
「波面上のすべての点は、次の瞬間に小さな波(波面)を生じる点波源となる。そして、それらの波の包絡面が次の波面を形成する。」
ホイヘンスの理論は、当時の科学界では必ずしも受け入れられませんでした。ニュートンは圧倒的な権威を持ち、「光は粒子である」と断言していたためです。ホイヘンスは科学的な議論で正しさを主張し続けましたが、その理論が完全に評価されるには100年以上を要しました。

 フランスの物理学者のオーギュスタン・ジャン・フレネル(1788-1827年)は、「光の波は波長が極めて短い波」という考えをもとに、光の干渉を数学的に証明しました。1815年には、光の反射と屈折についての物理法則を打ち出し、「宇宙には光を伝えるエーテルという媒質が充満している」という仮説を唱えました。

波の伝播の様子を説明する原理。波の位相の一定面、すなわち波面の各点から球面波(素元波あるいは2次波という)が放出され、それらが重ね合わされて、素元波の包絡面が新たな波面を作り、波が伝播するという説明。
この原理はオランダの物理学者ホイヘンス(C. Huygens)が1678年に発見したが、1836年、フランスの物理学者フレネル(O. J. Fresnel)が素元波の重ね合わせの重要性を指摘したことで、ホイヘンス-フレネルの原理とも呼ばれる。


 イギリスの物理学者のトーマス・ヤング(1773-1829年)は、1801年に「二重スリット実験」で、光が波であることを証明しました。

 1847年に、ドイツの医師・生理学者・物理学者であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821 - 1894年)が「エネルギー保存の法則」を定式化しました。
閉鎖系においては全エネルギーの量は量的に不変であるが、エネルギーの形体としては機械エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギー、光エネルギー、化学エネルギーのどの形に変化することが出来るという彼自身のエネルギー保存則を厳密に式にあらわしたのです。

 イギリスの物理学者のジェームズ・マクスウェル(1831-1879年)は、1864年に電磁波の存在を予言しました。
 それまで、磁石や電流が作り出す磁場と、充電したコンデンサーにつないだ2枚の平行金属板の間などに発生する電場は、それぞれ別のものと考えられていました。
 マクスウェルは、磁場と電場は表裏一体のものとするマクスウェルの方程式を1861年に発表します。そして、電気・磁気・光を、電磁気学として統合しました。

 マクスウェルの電磁気学を発展させたドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツ(1857 - 1894年)が、光電効果を1887年に偶然発見。光電効果は、金属などの物質に光(特に紫外線)を照射すると電子(マイナスの電荷)が飛び出す現象です。

 1888年に、スウェーデンの物理学者のヨハネス・リュードベリ(リドベルグ、1854 - 1919年)は、原子から放出される光(電磁波)の波長を、簡単な整数を用いて計算できる「リュードベリの公式」を発見。

 ドイツの物理学者のマックス・プランク(1858 – 1947年)は、1900年に、光や熱のエネルギーが連続的な波ではなく、「とびとびの粒」である量子(quantum)として放出・吸収されることを提唱。量子(quantum)はプランクが作った言葉で、ラテン語で「どれほどの量か」を意味するquantusを語源です。量子力学の基礎を築いたことから、「量子力学の父」とプランクは呼ばれています。
マックス・プランク(ヒューゴ・エアフルト - このファイルの派生元: Max Planck by Hugo Erfurth 1938cr.jpgOriginal source: https://www.dhm.de/lemo/bestand/objekt/max-planck, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=153625300による)



 1905年、スイスの首都ベルンにあるスイス連邦特許局の技師として働いていたアルベルト・アインシュタイン(1879-1955年)が、ヘルツの光電効果を説明するために「光は粒(光子)でもある」という光量子仮説を提唱しました。
 同じ年に、アインシュタインは特殊相対性理論を提唱します。「光の速さは誰から見ても常に一定である」という原理に基づき、時間と空間は絶対的なものではなく、観測者の状態によって相対的に変化することを示した物理理論です。

 デンマークの物理学者のニールス・ボーア (1885–1962年)は、1913年に原子核の周りを電子が回る「ボーアの原子模型」を発表しました。
 電子が原子内の特定の軌道(エネルギー準位)間を移動(遷移)する際、その軌道間のエネルギー差に等しいエネルギーを持つ光子を吸収または放出します。この過程は「ボーアの振動数条件」として知られています。

 1914年、イギリスの物理学者であるジェームズ・チャドウィック(1891 - 1974年)が「エネルギー保存の法則」に当てはまらない現象を発見します。経緯については、以下の現代ビジネスのページに詳しく書かれています。
出ていくエネルギーのほうが入ってくるエネルギーよりも大きいーー。

 「エネルギー保存の法則」に当てはまらないのは原子核がベータ線を出しながら崩壊するときにエネルギーが消えてしまう現象で、ベータ崩壊と呼ばれています。
 チャドウィックは、1932年、質量が陽子とほぼ同じで電荷を持たない粒子「中性子(ニュートロン)」を発見しました。


 フランスの理論物理学者ルイ・ド・ブロイ(1892-1987年)が、1924年に物質波(ド・ブロイ波)を提唱。「光が波と粒子の両方の性質を持つなら、電子などの物質も波の性質を持つはずだ」と考え、すべての粒子が運動量に反比例する波長を持つことを示しました。

 1925年、ドイツの物理学者であるヴェルナー・ハイゼンベルク(1901 - 1976年)が、量子力学の最初の形式的体系である「行列力学」を発表。さらに1927年には、「不確定性原理」を発表しました。
電子の位置のあいまいさ (不確定性) を小さくしようとすれば, 運動量の不確定性が大きくなり, 逆に,電子の運動量の不確定性を小さくしようとすれば, 位置の不確定性が 大きくなってしまうわけです. 位置と運動量の 両方の測定値を 「きっちりとした値」 に確定することはできないということです. 
 上であいまいさ (誤差) と言いましたが, これは実験装置や測定器が貧弱であったり, 目盛りの読み誤りなどによる測定誤差では ありません. 実験装置は完璧で 測定は理想的に 正確に行われていると仮定しても, 用いた光の粒子性と波動性の 2重性による本質的な誤差 (不確定性) が生じるのです.

 

量子の世界は、直観だけでは捉えきれないが、条件を明確にすれば検証可能な形で理解を積み上げられる。ハイゼンベルクは、その“条件付きの確かさ”を理論として言語化した人物である。

他方で彼の生涯は、科学が社会と切り離され得ないことも示している。ナチ体制の台頭により、多くの研究者が国外へ去り、学問が政治の圧力を受ける環境が強まった。ハイゼンベルクはドイツに残り研究を続けたが、その判断は、学問の継承を意図した側面と、国家の枠組みの中で研究が動員され得る現実の双方を帯びる。

 オーストリアの理論物理学者のエルヴィン・シュレディンガー(1887~1961年)は、ド・ブロイの「電子は波である」というアイデアに感銘を受け、その波が空間をどう伝わるかを数式化したシュレディンガー方程式を1926年に発表しました。シュレーディンガー 方程式が決定するのは、電子や原子などのミクロな粒子の状態を表す波動関数です。
 シュレディンガーは、「重ね合わせ(Superposition)」に関連して、ふたを開けると毒ガスが出る箱の中の猫の生死が、ふたを開けて観測するまで確定しない(猫が生きている状態と死んでいる状態が共存する)「シュレディンガーの猫」の思考実験でも有名です。
 また、2つ以上の粒子が互いに強い相関を持ち、一方を観測すると他方の状態が瞬時に決まることを「量子もつれ(Quantum Entanglement)」といいます。

 ドイツの物理学者のマックス・ボルン(1882 - 1970年)が、1926年に確率解釈(ボルンの規則)を発表。電子などが存在する位置を「波動関数の振幅の二乗に比例する確率」として、量子は観測するまでその位置は定まらず、確率の波として空間に広がっていることを示しました。



 オーストリアの物理学者のヴォルフガング・パウリ(1900 - 1958年)は、1930年に、ベータ崩壊に関連して「電気を帯びずに飛び出す未知の粒子があるから」という説を唱え、この粒子を「ニュートロン(中性子)」と名付けます(実際は、現在のニュートリノで、中性子は1932年にチャドウィックが発見)。
 しかし、ボーアは「原子核の内部のようなミクロな極限領域では、エネルギー保存の法則は厳密には成り立たず、エネルギーが失われることがある」と、パウリの説に反対しました。
 パウリの説をもとに研究を進めたのが、イタリアの物理学者であるエンリコ・フェルミ(1901 – 1954年)です。そして1933年に「ベータ崩壊は4種類の粒子(中性子・陽子・電子・ニュートリノ)が相互に作用して生じる」という理論をネイチャー誌に投稿しました。



 ボーアたちは、1927年に、後に呼ばれる「コペンハーゲン解釈」(命名は1955年)で、量子の測定値(電子の位置など)が確率的に変動することはある種の“原理”で、その確率は計算が可能だと理解されるようになりました。

 これに異を唱えたのがアインシュタイン、ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンです。1935年に、「もしコペンハーゲン解釈が正しければ、量子には非局所相関があることになる」と指摘し、古典的物理学ではあり得ないとしました(非局所相関とは、空間的に遠く離れた2つの粒子が強く結びつき、一方への観測や操作が瞬時にもう一方に影響を与える現象や性質)。後に、3人の名前から「EPRパラドックス」と呼ばれています。

EPRパラドックスに対するボーアの反論の内容を紹介します。
彼は、位置と運動量の測定が別々にできたとしても、それらの測定が両⽴することはあり得ず、したがって位置と運動量が同時に実在するとは⾔えないと考えました。(このような考え⽅をボーアの相補性原理と⾔います。)
アインシュタインとボーアの論争はアインシュタインが亡くなるまで続きました。アインシュタインの「神はサイコロを振らない」という⾔葉に対し、ボーアが「神が何をするか、あなたが語るなかれ」と返したのは有名なエピソードです。


 1964年、北アイルランドの物理学者であるジョン・スチュワート・ベル(1928 - 1990年)は、アインシュタインの主張が正しいかどうかを数学的に検証する方法を発案しました。「ベルの不等式」と呼ばれるもので、「もしアインシュタインが正しければ、この不等式は必ず成り立つ」としました。

 「ベルの不等式の破れ」の実験実証を行ったのが、アメリカの物理学者であるジョン・クラウザー(1942-)です。1972年にカルシウム原子から発生する量子もつれ状態の光子を使いました。
 この実験の穴を防ぐ実験を、1982年に、フランスの物理学者のアラン・アスペ(1947-)が行い、量子もつれの実在性を証明しました。
 オーストリアの物理学者のアントン・ツァイリンガー(1945-)は「遠くの銀河からの信号を使って乱数を発生させてフィルターを選択することによって,フィルターどうしが互いに影響し合わないような実験を行い」、「量子もつれの存在は完全に実証された」とのこと。

 アメリカの物理学者であるリチャード・ファインマン(1918–1988年)は、1948年に「経路積分」を、1981年には量子コンピュータのアイデアを発表しました。

「自然は古典(力学)的じゃない。そのシミュレーションをしたいなら、量子力学に基づく方法を使った方がいい」

量子コンピュータは、物質やエネルギーの最小単位である「量子」の持つ特別な性質、量子力学の原理を応用して計算を行うコンピュータです。量子が同時に複数の状態をとる「重ね合わせ」や、離れた量子同士が瞬時に影響しあう「量子もつれ」といった現象が計算に活用されています。



 余談ですが、漫画にも量子論的な要素を取り入れているような技がよく登場します。冒頭のエセスピリチュアルについても、漫画的なフィクションにしか捉えられません。
出典:『転生したらスライムだった件』(大好き)

 今回取り上げたガラスについても、ガラスは光を通すことから、液体ではないかという説があったとのこと。
 身の回りにある非常にありふれたものでも、わかった気になってはいけないことを再確認しました。


■主な参考資料
Wikipedia

ガラスは固体と液体の中間状態-ガラスでは分子の再配置が絶えず起こっている-

光の性質について論争・実験をしてきた人々
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